自己疎外と創作の楽しみ
近頃はキヤノンF-1をぶら下げてよく出掛けています。大抵は自宅からそう遠くないエリアを散歩するだけなので、出掛けるといっても場所はどこでも良いのです。
そう、あくまでも目的は「カメラを触ること」です。
歩き回るのは被写体を探すためですから、一連の行動は「カメラを触りたい」という欲求がさせている事なのです。
つまり「カメラに歩かされている」と言えなくもありません。
怖いですね。
キヤノンF-1で散歩スナップ
さて、この日は隅田川をまたぐ形で、蔵前橋通りを両国方面に向かうルートで歩きました。
江戸無血開城の立役者、勝海舟の生家の跡が今も両国に残っています。
つまり、幼少期に勝が野良犬に金玉を噛まれて瀕死の重傷を負った、その現場付近に来ていることは確かです。
この日は晴れてはいたのですが、時折り空を覆う分厚い雲が気がかりでなりませんでした。そんな風に空を眺めていると、建設中のビルの上にただならぬ気配を感じました。
今にも雨が降りそうなくらい分厚くなっているグレーの雲。
隙間からのぞく淡いブルーの晴れ間。
日光を遮られ、建設途中のビルのクレーンが影のようになっています。
「これはきっと良い感じのが撮れる」
レンズとフィルムを通すと、実際に肉眼で見た景色よりもドラマチックな絵に仕上がるのだから不思議です。
不穏すぎる雲を気にしつつ、写欲をそそられる被写体を探してさまよいました。
隅田川は両岸が遊歩道になっていて、散歩する人や、さわやかな汗を流すランナーたちとすれ違います。
橋のアーチの下が暗く影になっていて、ここも明暗差が良い感じです。ギラっと光る鉄骨がカッコよかったので額縁構図にして撮影しました。
巨大な首都高の橋梁を写真に納めつつ、橋を渡り終えると右手に公園がありました。横綱かなと思いきや横網町(よこあみちょう)公園というそうです。
身近なのに知らない場所
歩道から園内に目を向けると、何やら岩のような塊が見えました。近づいてみると火災で溶けた古い機械の残骸でした。
このように鋼鉄がぐにゃぐにゃと曲がってしまうのですから、とてつもない温度の熱風が吹き荒れたはずです。
これらは一体何なのかというと・・・
この横網町公園には大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災による遭難者と、昭和19年(1944)の冬より始まった東京大空襲の戦災者の御遺骨を納めた慰霊堂が建てられています。
鉄屑の残骸たちは、凄まじい火災の被害を伝える展示物でした。関東大震災の時のものだそうです。
社会人生活
東京の下町には、こうした興味深いスポットが点在しています。
少し歩けば土地の歴史に触れられるのに、僕は自分の生活する土地について、あまりにも無知であることに気づきました。
もちろん病院やスーパーなどよく利用する場所は把握していますが、いま住んでいる土地について、知識があまりにも乏しいのです。
職場から近いという経済合理性的な理由で選んだ東京の下町エリア。フルタイムで働いていると職場と自宅を往復する生活になってしまいがちです。
忙しさにかまけて日々の暮らしを疎かにすると、自分のことも周りの環境の事にも無頓着になってしまいます。
万が一、地震や津波に襲われたらどこへ逃げればよいのかわかりません。
これは動物としては致命的な状態なはずです。生き物が本来持っている本能や、ある種のセンサーが狂ってしまっている状態といえるでしょう。
常に野良猫のように身構えていては、それはそれで生きづらい気がします。
しかし、社会人としての生活は「自己疎外」を助長します。労働と賃金のことばかり考えていると、自分自身のことがよくわからなくなってしまうのです。
商品か作品か
僕は映像関係の仕事をしています。
しかし、いわゆる作家性を必要とする業種ではありません。
どれだけこだわって絵を撮ったり、編集しようとしても、別の誰かに手を入れられます。ある程度の裁量で演出を任されていますが、最終的な決定権は僕にはありません。良い悪いは別の誰かが決めるのです。
もちろんすごく良くなることもあります。
それに誤解されるような表現やとんでもないミスを指摘してもらったり、僕が気づかなった素材の魅力を引き出してくれることもあります。
その一方で、自分が思い描いていた完成形と全く別物の不本意な仕上がりにがっかりする事もまた多いのです。
お金をもらって雇われているわけですから、もちろん甘んじて受け入れていますが、出来上がったものにはあまり愛着が湧かないのです。
担当した以上、責任は持たなければなりません。
しかし、正直どうでも良いのです。
愛着が湧かない理由について、うまく伝わるかわかりませんが、例え話にしてみました。
僕が和食の板前だとして鮮度の良い魚が手に入ったとします。そして「これは刺身で食うのが一番美味いな」と考えたとします。
よし、さっそくさばこうと思うと「ちょっと待て!」と横槍が入ります。
店のオーナーです。
「客が万が一、食中毒でも起こしたりしたらどうする?」「訴えられるかもしれないから焼いて出せ」と言ってきました。
オーナーは職人の目利きや腕前など重要視していません。客にだす料理は美味いに越したことはありませんが、それ以上に何か問題が起こることを極度に恐れています。
味は二の次なので、焦げるくらいカリッカリに焼いて、化学調味料をぶっかけるようなことを平気で命じてくるのです。
焼き魚ももちろん美味しいですが、そうなると板前が感じた素材の良さは活かされません。
その上、包丁の入れ方から焼き加減、添え物や盛り付け方、皿の大きさにいたるまでいちいち指示されながら、調理しなくてはならないのです。
そうして出来上がった料理を自信を持って客に出せるでしょうか。愛着が湧くでしょうか。
「もっと美味いもの作れたのにな」と、不本意な気持ちが残るはずです。
自分に決定権がないのだから作っているものは「作品」などと呼べるものではなく、「商品」でしかないのです。売ることを前提に発注されて作ったものだからです。
どこにも僕の名前はクレジットされませんし、出来上がったものは会社の資産として扱われるのだから当然です。作品であるわけがありません。
それでも自分が携わったというのは事実なわけです。
愛着が持てないというのは、ある種の防衛反応のようなものなのかもしれません。
材料を詰め込んでアウトプットする。
それを取り上げられる。
養鶏場で卵を産み続けているニワトリの気持ちが、僕にはわかる気がします。
今日の芸術
こういった賃労働による自己疎外は、あらゆる職場で起きていると思います。
たとえば興味のない商品を売り込む営業マンや、自分が見たこともないような金額を扱う事務仕事などです。業務内容に関係なく、どんな分野の仕事でもこうしたことは起きていると思います。そうやって一日中、自分の本質を見失った状態でいると、次第に自分のことがよくわからなくなります。
生きていくためにはお金を稼がなくてはなりませんが、人間らしく暮らすためには、誰にも干渉されずに過ごす時間が必要なのです。
仕事以外のことで、何か創造的なことに没頭する時間が必要なのです。上手い、下手は関係ありません。
そのためには、まずは見なくてはならないはずです。
ふだん抑圧されている無意識を。
疎かにしている自分自身のことを。
芸術家の岡本太郎さんが著書「今日の芸術」の中で、芸術とは我々の「生活そのものに根本がある」と語っています。何か特別に華やかで高尚な作品だけが芸術なのではなく、生きることそのものが芸術なのだということです。
優れた表現というのは、見た人に何かを想起させます。それは「きれい」「カッコいい」「腹が立つ」「怖い」といった感情や気分であったり、記憶の断片であったり、なんだかわからないがすごく惹かれる、といった捉えどころのない想念だったりします。
必ずしも作者の意図したものであるとは限らないのですが、芸術にそういった何かを想起させる力があるという事が、岡本太郎が「芸術とは生きることそのもの」と語る理由なのだと思います。
岡本太郎さんの著書から少し引用します。
自分の事がわからなければ、何も見ることはできません。
ガラス玉のように、ただ網膜に目の前の景色が映っているだけです。
自己とは世界を認識するためのフィルターです。自分という媒介物の特徴を理解できていなければ、世界を認識することはできないのです。生きる世界は同じでも、どう見えるかは人によって違います。
僕の好物は誰かの苦手なものだったりします。
僕が必要だと思うものは、誰かにとっては取るに足らないつまらないものでしかないかもしれません。
僕が不得意なことを得意な人もいるでしょう。そうやってあらゆる事を分類していくと、人間はとても多様な存在だという事に気づきます。
何かに出会った時に自分がどう反応するのか、どんな感情を持つのか。
見るというのは自分を知るという事です。
お気に入りのカード
カメラも創作のためのツールの一つです。
最適な露出を探ったり、光の使い方や構図を工夫するなど、あらゆる表現方法を選択できます。
たとえば下の写真は園内の日本庭園を撮影したものです。
木々の緑が色濃くて鮮やかだったので、露出はややアンダー気味に。周囲の余計なものが映り込まないようにカメラを縦にして切り取りました。
池の反射も良さげだったので分割構図にしたのですが、結果は・・・
意図した形には出来ましたが、池の水が濁っていて浮遊物が目立つのが残念でした。
必ずしも思い通りのものが出来上がるとは限りませんが、こうやってアレコレ考えながらカメラを操作するのが楽しいのです。
上手い下手はともかくとして、自分のイメージしたものを写真に残している、何か作品のようなものを作っているという手応えがあります。
お気に入りのイラストやカードを作るために、カメラを使ってその瞬間を切り取る。そんな感覚です。
なぜその被写体に興味を持ったのか、何を感じたのか。
頭の中に浮かんだ感情や想念を追っていくと、思わずはっとするような事もあります。
それは忘れていた記憶の断片や、あるいは過去のコンプレックスを自覚する瞬間であったりもするのですが、たとえネガティブな事柄であったとしても、不思議と嫌な気持ちにはなりません。
そうやって普段意識していない無意識に触れるのも、自分を取り戻していくような感覚があって気分が高揚するからです。これは自己疎外とは正反対に、己を知り受け入れている瞬間です。
国民国家
最近は働き方改革やリモート業務の推進によって、以前よりも職場に拘束される時間が減りました。良きにつけ悪しきにつけ、多くの人が実感している事だと思います。
社会が近代化する以前、人類は本来そうした余剰な時間をもっと持っていたはずです。
テクノロジーが発達することで効率化が進み、人間のやることはどんどん減っていきます。
人にしかできない社会インフラを支えるような仕事をのぞくと、もはや現代人に残されている分野はわずかなのかもしれません。たとえば物流業や製造業はいずれ自動運転やドローンに置き換わっていくことが予想されていますよね。
18世紀後半、イギリスで起こった産業革命。農業中心の生産活動から工業化社会へと移行しました。産業構造が一変するとともに、登場したが国民国家です。
それまでの戦争は貴族同士の争いでした。ところがフランス皇帝ナポレオンが率いる、主権者意識を持った国民によって編成された軍隊が圧倒的な強さを見せます。
こうして国民国家システムはあっという間にヨーロッパ中に広まっていきました。
日本では倒幕を果たした明治新政府がこのシステムを輸入しました。「富国強兵」を実現する為です。戦後は「経済成長」「所得倍増」といったスローガンに変わりました。植民地獲得競争から経済へと戦争の形態が変化したからです。
国民国家には国民が必要です。
そのために学校が作られました。
学校は子どもを国家に帰属意識を持った国民に仕立て上げる機関です。国民を再生産するため、親には子どもに教育を受けさせることが義務付けられています。読み書き、計算、集団行動、これは工場労働者、そして兵士に最低限必要な資質です。
兵士個人の資質があまりにかけ離れていれば部隊としてうまく機能しません。
同様に労働者の能力がバラバラでは、工場は安定して製品を作ることができません。
つまり、この教育システムの特徴は、一定レベルの資質を持った均質な人材を、安定して大量生産できるという点です。
同じスキル、同じ知識、同じような経験を持っている、だったら僕でなくも構わないわけです。誰でもできる仕事ばかりだから、日本の企業は生産性が低いのでしょう。
イノベーションという言葉は無からの創造を意味するわけではなく、既存のものの組み合わせ方を変えることなんだそうです。
どんどん仕事が減りゼロサム的な状況が進んだ時、新たに何かを学ぶには時間がかかります。しかし、自分の本質を理解していれば、同じ技術でも組み合わせを変える事で、新たなサービスやビジネスを思い立つことができるかもしれません。
2000年代に入ると、ニコニコ動画では「踊ってみた」「歌ってみた」というジャンルが人気でしたし、コミケに毎年多くの人が集まるという事がニュースになっていました。いわゆる「二次創作」がこの頃から活発になりました。
多くの人が何らかの創作に没頭しているという事は、自己疎外を助長させるような働き方にウンザリしている人の数もまた多いはずです。
20世紀が終わる時、新しい世の中に向けてゆっくりと人々の意識に変化が訪れていたのです。
本当に欲しいモノ
岡本太郎さんの言葉を借りて、えらそーに芸術論なんぞを語ってしまいましたが、僕も物欲にまみれた、ただのカメラ好きのひとりです。
この日、散歩していて何度も頭をよぎったのは「50mmって意外と狭い」という事でした。
もっと広角のFDレンズが欲しいので、次に購入するレンズは35mmにするか、それとも28mmにするか、今はそんな事に頭を悩ませています。
しかし、大切なことはこれがテレビやネットの広告が僕に吹き込んだことではないということです。誰かが買わせようとしているものではなくて、カメラで遊んだ結果、自ら望み必要だと思ったものなのです。