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齢35にして、虎になる〜『山月記』を読んで〜【読書のキロク】
こんばんは、"もっちゃん”です。
記事に興味を持ってくださり、ありがとうございます。
先日、ふとしたきっかけで『山月記』を読みました。
高校の教科書に載っていたものですが、今読み返してみると身に沁みるものがありました。
◯今回読んだ本:『李陵・山月記』 著者:中島敦 新潮社
毎年かっこいい表紙で新潮文庫から出されます。
今回読みたくなって、また書店で書い直してしまいました。
(計4冊目だった、ということが発覚しました)
◯概要
人はいかなる時に、人を捨てて畜生に成り下がるのか。中国の古典に想を得て、人間の心の深奥を描き出した「山月記」。母国に忠誠を誓う李陵、孤独な文人・司馬遷、不屈の行動人・蘇武、三者三様の苦難と運命を描く「李陵」など、三十三歳の若さでなくなるまで、わずか二編の中編と十数編の短編しか残さなかった著者の、短かった生を凝縮させたような緊張感がみなぎる名作四編を収める。
上記の通りです。
人を捨てて畜生に成り下がる。
その表現が正しいのかはなんとも言えませんが、その通りだと思います。
なお、今回取り上げるのは『山月記』のみとします。
『山月記』ほどの名作となると、いろいろ考察等もなさっている方も多いと思うので、自分の読んだ感想のみキロクとします。
◯私は李徴なのではないか
高校生の時に教科書で初めて読み、インパクトのあったフレーズとして
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」
というものがあります。
概要を思い出せなかったにしても、李徴が虎になってしまったことと、この言葉だけは覚えていらっしゃる方は多いと思います。
高校生のころ、なんとなく意味を感じて「そうならないようにしたいなぁ」くらいに感じていたように思います。
まだ李徴を李徴として見ていたように思います。
それがどうでしょう。
齢30を超えて読み返して見た現在。
私は李徴なのではないか
と、自分を投影しつつある自分がいます。
◯「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」
やはり感じるのは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。
自分は自惚れてきたわけではない、と自分に言い聞かせつつも、
自分にはきっと何か才能がある!という自尊心の一方、
いや、やっぱりそうでもないのではないか、という臆病さ。
加えて、
その才能の無さを露呈したくない!という羞恥心もありつつ、
それを他者には悟られたくない、という尊大さ。
なんかもう、自分も兼ね備えてきてしまったようにも思います。
このままでは私はそろそろ虎になります。
◯虎になる前に気づく
せめてもの救いとして、私は虎になる前に『山月記』を読んでこれに気づきます。
本書的に言えば、人を捨てて畜生に成り下がる前に気づくわけです。
悲劇と感じるのは、李徴がそれに気づくのが虎になった後ということです。
なんとなく李徴に救いの手を差し伸べたい、とも思いつつ、この物語は救いようのない形で終わります。
それが切ない限りです。
◯気づいたところでどうすれば?
考えるのは、気づいたところでどうすればよいのだろう、ということです。
李徴としては、詩人になるために一心に努力すればなれたのではないか、と考えているようにも思います。
だが、それが難しい気もします。
それができないところが「臆病」な自尊心なのです。
私もその臆病さを兼ね備えています。
では、どうすれば良いのだろう。
結局、その克服、その臆病さに打ち勝つことを考えなければいけないのかもしれません。
あるいは、その臆病さを受け流せるようにならなければいけないのかもしれません。
さて、そのためにはどうするか。
考えが止まってしまいます。
が、これからも考えていきたいと思います。
そんなことを考えた1冊でした!
久しぶりに、なんとなく感慨深くなりました。
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