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どうせなら「幸せ」を選択する生き方を。

もう10年以上前のことになるけれど「内観研修」に参加したことがあった。

「内観」とは、1940年代に吉本伊信が「身調べ」という浄土真宗の修行法をもとに開発した自己洞察法で、内観研修所に1週間宿泊する「集中内観」が基本の形となっている。

サラッと書いてしまったのだけど、
1週間泊まり込みで、ただただ自分と向かい続けるとは、どういうことか。

具体的には、ひたすら自分と近しい関係にあった人(母、父、配偶者、兄弟・姉妹、恩師・先輩・後輩など)に対して、

「してもらったこと」
「して返したこと」
「迷惑をかけたこと」

を振り返り続け、1-2時間に一度やってくる面接者に、その内容を報告する。

もちろん、その間、スマホやPC、読書、テレビなどの時間は禁止され、誰かとおしゃべりをすることもない。

……というのを延々と1週間続けていくのが「内観」の中身なのだけど、
この時間が、私にとっては、とにかく「幸せ」だった。

「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」を振り返り続けていくと、まず「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」の多さに愕然とする。
自分が「して返したこと」なんて、微々たるもので、風が吹けばあっという間に消え去ってしまうような塵ほどしかなかった。

この事実を、あらゆる角度から眺めていくと、自分がいかに周りから愛され、許されていたのかに気づかされる。

「内観」は「愛の落ち穂拾い」と表現されることもあるのだけど、記憶からこぼれ落ちた記憶を、一つひとつ丁寧に、手繰り寄せていくように、自分がたくさんの愛と赦しを得ていたことに気づいていく——私にとっての「内観」は、そんな幸せが詰まった時間だった。

ミレーの「落ち穂拾い」のように、溢れた実を一つひとつ丁寧に拾い集めていく

私たちは「ありのまま」を記憶することができない仕様になっている。
「すでに受け取ったもの」は、すぐに「当たり前」となり、きれいさっぱり姿を消す。その代わりに表面に浮かび上がってくるのは「嫌だったこと」や「もっとほしいもの」ばかり。
「内観」では、そんな人の残念な仕様、デフォルト設定についても思い知ったのでした。

* * *

話はガラリと変わって、
「欲求の五段階」で有名なマズローは、人の欲求は「欠乏欲求(deficiency needs)」と「成長欲求(growth needs)」に大別できるといった。

そして、すごく大雑把にいえば、自己実現欲求以下のすべての欲求は「欠乏欲求(deficiency needs)」で、自己実現欲求こそが人間らしい欲求(=成長欲求(growth needs)である、と。

「deficiency」は日本語でいえば「欠乏」「欠損」「不足」「欠陥」、一方の「growth」は、「成長」のほか「発展」「増大」「生長」など。

「欠陥」「欠乏」「不足」ばかりに駆られるように生きているのが、人の性(サガ)なのかな。とても悲しいな——と受け止めることもできるけれど、マズローは、次のような言葉も残している。

これらの欲求(=欠乏欲求)は、有機体において本質的に欠けているいわば空ろな穴であり、それは健康のためにみたされねばならず、しかも、主体以外の人間によって外部からみたされねばならない

私は、これを読んだとき「なるほど!」と思った。

そもそも人は一人では完結できない(満たされることがない)ように設計されている。そう妙に腹落ちしたのだった。つまり、本質的に欠けていて、「空ろな穴」をもつ人間は、他者によって満たされてこそ「人間」らしい道(自己実現)へと向かっていけるのだ。

あともうひとつ、「内観」の経験からいえば、
「空ろ」だと思っている穴は、本当に欠けているのだろうか?もしかしたら「欠けている」と、勝手に思い込んでいるだけではないだろうか?
そんな疑問もわいてくる。

もちろん、過酷な幼少期を生きた方もいるだろう。
本当に愛してほしかった人からは愛を受け取れなかった方もいるだろう。

だけど、今ここに生きているという現実から逆算したとき、相当な量の「してもらったこと」があるのでは? 知らず知らずのうちに「迷惑をかけたこと」も多々あるのでは?

悲しいのは、人間の不完全さというか、どうしようもないほどの「忘却力」だろうか。何もしなければ「愛された記憶」も「してもらった記憶」も「幸せな記憶」も、何もかもが忘却の彼方へと消え去ってしまう。

だから、私たちはわざわざ振り返り、思い出す必要があるのだろう。

大切な記憶を、未来へと繋いでいけるように。
未来の自分が、悲しみに暮れたり、絶望に打ちひしがられたりした時に、それでも私を応援したいと願う、愛してくれた人たちの存在を届けられるように。

* * *

ここでもう一度、マズローに戻って、どうやって「人間らしい成長(自己実現)」へ向かっていけばいいかという話。

けれどもやはり、成長動機の人びとの問題や葛藤が瞑想的な方法によって、内面に向かい、いわばだれか人に助けを求めるよりも、自己探究によって、自分で解決されていることを忘れてはならない。理論的にいっても、自己実現の仕事の多くは、計画を立てたり、自己を見出したり、発達への可能性を選んだり、生活の展望をうちたてたり、大部分は人間内の問題である。

太字は私が追加したものなのだけど、要は、人間らしい成長をしていくためには「内省し、自分と向き合う必要があるよ」ということだ。

ただ、それは、反省するかのように自分にダメ出しをするような振り返りではないだろう。内観でやるように「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」など、どれだけ愛され、許されてきたのかを、確認することではないだろうか。

たくさんの愛を受け取っているなかで、私は何をしたのか。
これから何を「して返す」ことができるか
どうか。

「愛」や「許し」を受け取り、次へと手渡渡していく。
そんな循環のなかで生きることこそが「人間らしい成長(自己実現)」なのではないか——と思ったのでした。

ところで。
「内観」とマズローの話を思い出していたら、「ジャーナリング、特に「3good things」ってやっぱりすごいな」とあらためて思った。

「3good things」とは
アメリカの心理学者セリグマン博士が提唱した「ストレス解消方法」で、その方法は「寝る前にその日に起きた良いことを3つ書き出す」こと
セリグマンらの研究では、毎晩寝る前に良いことを3つ書くことを1週間継続するだけで、その後半年間にわたって、幸福度が向上し、抑うつ度が低下する(うつの症状が減る)という。

その日にあった「幸せ」を拾い集めるように書き残すことで、どんどん幸せになっていく——これは自宅でできるプチ内観でもあり、欠乏感を満たし人間らしい成長へと向かっていく「自己実現」への大切な一歩だろう。

こういう手法を残し、分かち合ってくれることもまた「愛」だろう。
(ありがたい!!)

幸せに生きる智慧、愛された記憶も、見ようと決めて向かっていけば見つけていくことができる。

だとしたら、さいごは「選択」の問題だろう。

どんな生き方をしたいか——は、自分で決めていいのだ。
というか、自分が決めていく必要があるものなのだ。

幸せで、愛されている実感をもちなら生きるか、それとも、不幸せで愛されていない(世界から見放されている)と感じながら生きるか。
もちろん、他の選択肢だってあるだろう。
ただ、いずれにしても、生きるうえでの態度・スタンスは、自分で選んで、生きていくことができる。

どうせ生きるのであれば、一人でも多くの方が、前者を選択し、共に幸せに生きられたらいいなぁ。そう願って、私は今日もnoteを書いている。
たとえ僅かでも、誰かから受け取ったものを、誰かに手渡し、分かち合っていくことが、私にとっての幸せなのだろう。

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柏原里美|編集者・ファシリテーター
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