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執筆には役に立たない「書くこと」と「読むこと」の関係性について。

 本を読んでいるか?
 と問われれば自己認識では読んでいないと答える。ただ、読むことは大事だと思っているし、書くことと読むことは繋がっていると思っている。

 本日は休日だった。妻も珍しく一日オフとのことで、妻の実家へ行ったり、買い物をしたりして過ごしても時間は余った。二人でだらだらする時、僕は本を読むかX(旧Twitter)をぼんやり眺めている。
 そこで、X(旧Twitter)にて『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の抜粋という文章が目にとまった。

『多くの人は、自分では論文を書けなくても、読むことならある程度できる、と考えている。スラスラと正確に読めるかどうかといった話ではなく、ようは執筆力よりも読解力のほうが高いはずだという想定だ。
 
しかし本書の核にある認識のひとつに、「書けないやつは読めてもいない」というものがある。書けないということは読めないということなのであり、読めないということは書けないということなのだーーそう考えたほうが、執筆の役に立つ。』

 あくまで論文を書くための前提としての話だけれど、重要な指摘だと思う。
 読書猿が引用して「読まなければ、書けるようにならない。書かなければ、読めるようにならない」とポストしていた。
 そして、これはあくまで「そう考えたほうが、執筆の役に立つ」という話だ。

 僕は専門学校のノベルス学科で小説の書き方を学んだ。その中で何人かの先生が本を読めと繰り返していた。ただ、授業の中で「なぜ、本を読まなければいけないのか」また、「どんな本から読み始めるべきなのか」という点には触れていなかったように思う。

 ライトノベルを目指しているのなら、ライトノベルだけ毎月十冊は読むべきだ、で良いのか(ライトノベルを純文学でもミステリーでも変換して良いだろう)。何を目指しているにせよ、毎月いろんな本を無差別に読めの方が良いのか。
 この辺の細かい切り分けなく、ただ大雑把に本を読めと先生に言われても生徒としては困る。僕自身困っていた。ただ、プロットなどを提出することで、ある先生から「君の書きたいものは、この作品に近いから読んでみたら」と言われたりすると、手にとって読んだ。

 ちなみに、その本は中村文則の「掏摸」と吉田修一の「パレード」だった。二十代の僕はこの二作を繰り返し読んでいた。
 そこから僕は二人が芥川賞を取っていると知って、芥川賞受賞作品や受賞作家の本を集中して読むようになった。一つ二つの読書経験によって、次に読むべき本が分かるようになった。

 流れと行っても良い。この流れに乗ることが読書の一つの楽しみになる。
 そして、この先におそらく二つの分岐点がある。ひたすら読解力を高める批評側の「書く」にいくこと。そして、もう一つが小説を書いて執筆力を高めていくこと。

 どちらも小説の理解値を高める効能はある。けれど、批評家と小説家がある部分で相容れないように、二つはコインの表裏になってしまう。
 ただ、どちらのルートでも読むことと書くことの重要性は変わらない。
 そして、「そう考えたほうが、執筆の役に立つ」。

 と書いて最後に前提を覆すようだけれど、僕の友人たちでよく書く人たちは本をあまり読まない。彼らの小説が必ずしも面白いと僕は言えない場合が多々あるにせよ、彼らは実によく書いている。

 比べて僕は、おそらく彼らより本は読んでいるけれど、彼らより小説は書けていない。これは非常に低レベルな話をしていると思うし、長期的かつクオリティの高いものを量産し続けるためには読んで書いて、書いて読むの循環を目指した方が絶対に良い。

 ただ、ミクロな視点の事実として、読まない方が書ける場合はあって、読むから開けない場合もある。ただ、これは執筆の役には立たない。

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さとくら
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