日記 2022年2月 午前三時「梶井基次郎の檸檬の中に出てくるような街」を歩く。
2月某日
ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』を図書館で借りていて、忙しくて半分も読めずに返却。
少し悔しくて、『掃除婦のための手引き書』に関する書評などを立て続けに読む。その中で、翻訳者の岸本佐知子と作家の川上未映子が対談している記事を見つける。
川上未映子が言う以下の箇所になるほどと思う。
ルシアの声の誰にも似ていなさについて、ポイントになるのが「沈黙」のなかの一文、「わたしはどんな悲惨なことでも、笑い話にしてしまえるのなら平気で話す」と書いていることです。もちろん、作家のスタンスと、語り手のスタンスは分ける必要があるけれども、この一文の持つ姿勢は彼女を捉えるキーだと思いました。それはナルシシズムと関係していて、実生活に材をとって書くときに、作者と書かれる作品の世界観の間には作者の演技が入るんですね。自己顕示が文体や語り手のキャラクターに託されるんです。
確かに「実生活に材をとって書くときに、作者と書かれる作品の世界観の間には作者の演技が入る」と思う。
私小説作家の三浦哲郎が芥川賞を取った「忍ぶ川」を書く以前も小説を書いていたが、まったく評価されなかった(とどこかで読んだ)のは、ルシア・ベルリンの持つスタンスみたいなものが上手く確立できていなかったのかな、と感じる。
逆に言えば、三浦哲郎の「忍ぶ川」はしっかりと「自己顕示が文体や語り手のキャラクターに託され」た作品になっている。
ここで三浦哲郎を引っ張ってきてしまうほど、僕はルシア・ベルリンの姿勢を感じれるほど『掃除婦のための手引き書』を読み込めなかったことが悔しい。
また図書館にあったら借りるか、いつでも読めるように買ってしまうか、ちょっと悩む。
2月某日
東浩紀の「AERA」のエッセイを読む。
オープンレターに関するあれこれは、ツイッターで知ってから細々と調べて追っている。
すごく話題になっている訳ではなく、局地的に盛り上がっているイメージ。
この手の話題に日記の中で、どれだけ言及すべきかよく分からない。同時に僕自身のスタンスも定まらない。
とはいえ、東浩紀の書く「かといって被害者も永遠に弱者というわけではない。被害者が弱者性を利用して過剰に加害者を攻撃すれば、関係はすぐ反転する。女性蔑視は許されないが、かといって署名を集め活動停止に追い込むのもやりすぎかもしれない。」には同意したい。
けれど、これは僕が男性だからだと言われてしまうと、それはそうなのかな? と悩む。
違うと思うけど、違うってことを明快な言葉で語るのは難しい。
2月某日
大阪のまん延防止等重点措置は1月27日から2月20日までとのこと。
仕事の関係で、ちょうど27日前後から忙しくなり、また僕のいる部署は死守する必要があるとのことで普段のオフィスから別の階の会議室への移動となった。
毎朝、抗原検査キット(一個四千円だそう)で陰性か陽性かを確認し、アプリで報告するように言われる。
抗原検査キットはマクドナルドのアップルパイが入っているようなパッケージだった。
なんとなく調べると、このパッケージには名前があって「ピローケース」と言うらしい。
ピローケースは形状が枕のような形状をしているため、「枕→ピロー」ということでピローケースという名称になってます。
なるほど。
ピローって枕って意味なんだ。ちなみに、説明していたサイトはここ。
化粧箱とかを販売する会社なのかな?
そして、ピローケースは人気ないんだ、ふむ。
さて、そんなピローケースに一つずつ抗原検査キットは入っているのだけれど、5日分一気に渡されるので受け取る時に注意しないと落としそうになった。
2月になって別の階の会議室で毎朝、抗原検査をすることになった。そして、その初日に僕は喉を傷めた。
声がガラガラになって、喉の奥が腫れているのが分かって、ものを食べるのも億劫になった。
けど、抗原検査は陰性で熱もない。
原因を考えていると、会議室が前のオフィスより寒いではないか、という結論に行き着く。
会議室の出入口の扉は常に開けっ放しで、内側から業務用の扇風機を回していて、しかもエアコンの切り替えに暖房がない(まじでなんで!)というコンボ。
ずーっと、ガタガタ震えて仕事をしていたから、そりゃあ喉も傷めるわ!
ということで、普段の二倍厚着して、仕事中も常にマフラーを巻くようになった。まさに、「ミステリと言う勿れ」の主人公、久能整に憧れている人みたいな風貌になった。
せっかくなら、アフロみたいなパーマをあてようか少し悩む。
けれど、会議室に移動したメンバーの誰も「ミステリと言う勿れ」を見ていなかったので断念。
会議室に移動したので、仕事中に音楽を聴いても良いとなる。よく分からないけれど、そちらの方が仕事に集中できるでしょ? ということだった。
なら、普段から聴いて良いってことにしてくれてもいいのに。
音楽を聴くと言っても、音楽プレイヤーを持ち込んで良い訳ではなく、あくまで仕事用のパソコンでYoutubeにアクセスし、そこから音楽を聴いてという手順だった。
であるなら、ラジオを聴いてもバレないのでは?と一瞬思うけど、仕事は集中できないので、作業BGM系を検索したおす。
その中で、気に入ったのは夏のヒップホップを集めた作業BGMで、くそ寒い会議室の中でせめて耳元は夏の陽気さをという涙ぐましい努力のたまものだった。
とくにヒップホップが好きと言う訳ではないので、本当に聞き流す感じになっていたのだけれど、一つ歌詞に引っかかる曲があった。
梶井基次郎の檸檬の中に出てくるような街の中は
埃っぽい匂いが立ち込める通り雨の後で
なに、その街。
梶井基次郎の檸檬の初版は1925年だから、誰もあの小説の街の空気は知らないのでは。
気になって、歌っている人と曲名を調べると、かせきさいだぁ「じゃっ夏なんで」という曲だと分かる。
かせきさいだぁって平仮名で書くんだ。
なんとなく歌い方も癖になって、仕事中に繰り返し聴いて、その日の帰り道にサブクスで調べてプレイリストに入れた。
個人的に好きな歌詞は以下の箇所だった。
今迄ダンマリを決め込んでた風鈴達さえ
いきおい騒ぎだしたのは
ボクでさえ初めて見る
キミの浴衣姿の所為だけじゃなくて
その口元スッと引かれた紅の
熱に浮かされたボクが風をこうドッと辺りに
巻き起こしたからさ
神社への道はちょっとした賑わいを見せ
ユラユラ揺れる陽炎、蝉時雨
浴衣姿薄化粧のそのほんの一寸赤い口紅の所為で
喉はカラカラさ、嗚呼さいだあがあればこんな日は
でも君のリクエストに答えシャクシャクと
キミと一緒に食べるカキ氷
最高じゃない?
女の子と夏祭りに行って、初めて浴衣姿と口紅をすっと引いた姿を見る訳でしょ? そりゃあ、「ダンマリを決め込んでた風鈴達」も騒ぎだすよ。
更に「神社への道はちょっとした賑わいを見せ/ユラユラ揺れる陽炎、蝉時雨/浴衣姿薄化粧のそのほんの一寸赤い口紅の所為で/喉はカラカラさ」って、お前、女の子の方直視できてねぇだろ? 喉がカラカラなのも、普段違う姿の女の子の姿に緊張してでしょ?
もう、めっちゃ分かる!
女の子との出かけること自体は初めてであっても、それほど緊張しないんだよ。こっちだってバカじゃないから、昨晩から死ぬほどシュミレーションはしてる訳だからね。
格好つける気マンマンで、あれこれ準備するって。
けど、口紅とか薄化粧とか、そういう普段見れない大人っぽい姿でこられると、こっちはもうお手上げの完全敗北で、リクエストされたらサイダーが飲みたくても、カキ氷を食べるよ。
バチバチの真冬の2月真っ只中だけれど、カキ氷を食べたくなる。誰にもリクエストされていないけど。
カキ氷だとイチゴかなぁ。
年を取ったせいか、去年は宇治抹茶あずきのカキ氷とかを食べたくなったんだよなぁとか考えるけど、喉も痛いんだから今食べるのは絶対違うので我慢する。
2月某日
アニメの「平家物語」が面白い。もう今年一番のアニメが決まってしまった感じすらある。
まず、原作が古川日出男が現代語訳した池澤夏樹=個人編集日本文学全集09「平家物語」なのだ。
日本文学全集のアニメ化ってありなのか?
と最初は疑問になったのだけれど、監督が山田尚子とあって見るしかない、と思った。山田尚子は京都アニメーションで「けいおん!」を作った人で、更に「映画 聲の形」の監督も務めた人。
「映画 聲の形」の仕事っぷりだけで歴史に名を残す人で良いのに、ここで更に「平家物語」。
凄いとしか言いようがない。
ちなみに、原作を描いた古川日出男は創作に関しては鬼というか、僕が知る限りもっとも真摯に小説と向き合っている作家の一人だ。
佐々木敦との対談で、日本文学には三人の巨人がいて、それは大江健三郎、中上健次、村上春樹だとして、その三人に単身挑んでいる作家として古川日出男はいると称されていた。
僕は村上春樹が好きで小説を読むようになって、日本文学界隈で一人の巨人と数えられる影響力の強さは、なんとなく分かる。
そんな中で村上春樹を乗り越えられる作家がいるとしたら誰か? という問いがあるとすれば、僕は阿部和重と古川日出男を挙げる。
あと小川哲も行けるんじゃないか? とも思っている。
村上春樹を乗り越えるというのが、どういう状態を言うのかは人によって異なるだろうけれど。
さて、話がズレた。
「平家物語」のオープニングが羊文学の「光るとき」という曲なのだけれど、歌い出すまでの前奏が29秒もあるのだ。
もちろんアニメでは、その前奏はカットされて歌い出しから始まっている。
ビリー・アイリッシュの流行から、というかサブスクで音楽を聴くのが当たり前になってから、歌い出しを如何に早くするかが主流になっている。
聴くと分かるけれど、ビリー・アイリッシュの歌い出しは本当に早い。そして、それは戦略的にやっている。
ちなみに、日本のサブスク界隈の申し子というか、戦略的にヒット曲を作っているのはYOASOBIで、歌い出しがもっとも遅いのは「ハルジオン」の15秒。
10秒を超えているのは、もう一曲「もう少しだけ」で、あとはほとんど4秒以内で歌い出す。
代表曲の「夜に駆ける」は1秒には幾田りらの声が入る。
ついでに個人的にサブスクの申し子やわ! って思うのは、この歌い出しが早いともう一つ、英語歌詞で歌ったバージョンもサブスクに挙げている点。
サブスクでは海外の人も気軽に聴くことができるようになっていて、それを意識しているんだろうなと勝手に思っている。
実際、それが成功しているのかは調べていないので、分からないけれど、一定数の人はYOASOBIを聴いているのではないかと思う。
という具合にサブスクで曲を聴いてもらうには、如何に早くボーカルの声を入れるかがあるのだけれど、「平家物語」のオープニングの羊文学「光るとき」は歌い出すまでに29秒!
驚きの数字だ。
今がカラオケ全盛期の90年代から00年代であれば、前奏でマイクを持って煽りの声が入る丁度良い前奏は好まれただろうけどさ。
なんて思ったので、前奏が更に長い曲もあるのかな? と測ってみると、「マヨイガ」という曲が歌い出しまでに60秒を超えていた。
いや、もう最高! 逆に好き。
そんな訳でウィキペディアで調べると、羊文学は「オルタナティブ・ロックバンド」なんだと説明されていた。
オルタナティブ・ロックとはなんだろう? と調べると以下のようにあった。
オルタナティヴ(Alternative)とは、「もうひとつの選択、代わりとなる、代替手段」という意味の英語の形容詞。オルタナ・ロックは、大手レコード会社主導の商業主義的な産業ロックやポピュラー音楽とは一線を画し、アンダーグラウンドの精神を持つロックのジャンルである。
なるほど。
僕は興味が出ると、とりあえずインタビューを読み漁るのだけれど、「羊文学に感じる「オルタナティブ」の正体とは何か――最新作『ざわめき』にどうしようもなく癒される理由」という2020年06月14日の記事が出てきた。
書いたのは杉浦美恵という方。
その記事の中で以下のような記載があった。
80年代の終わりから90年代にかけて、世界的にオルタナティブロックの隆盛があり、サウンドやメロディに宿る激情に、抗いようのないポップが表出する瞬間こそがリアルだと、若者たちはその音楽に共鳴した。ノイジーで歪んだギターサウンドは、ダークサイドへとつながる亀裂を露わにしながら、その危うさの上でこそ美しく響くメロディがあり、叫びがあり、それこそが逆接的にリスナーの心を癒した。羊文学が表現するオルタナティブサウンドは、その系譜を汲んでいるものでありながら、現代のポップミュージックとして不思議な心地好さを感じさせるものでもある。だからこそ新しく、今の時代に「癒し」を感じさせるのだと思う。
つまり過去のオルタナティブロックの系譜を汲みながら、現代のポップミュージックとしても成立させているのが、羊文学だと。
最高じゃん!
僕は遠い過去と遠い未来を繋ごうとする創作者を殆ど無条件に尊敬するところがあって、この時点で羊文学を応援したくなっている。
なにより、池澤夏樹=個人編集日本文学全集という取り組み自体、そういう部分があって、同時にそれは古川日出男が現代語訳した「平家物語」もそうな訳で、原作自体が鎌倉時代に成立したとされる軍記物語だから、どんだけ古いんだって話だ。
そんな物語が2022年にアニメで見れて、この先も語り継がれるだろうクオリティを担保している。
更に、そんなアニメのオープニングを羊文学が担当しているのだから、素晴しい以外の言葉はない。
2月某日
最近、気づいたこと。
小説を書くぞー!って気分の中で、まず何をしようかな?と考えて、住野よる「君の膵臓をたべたい」の何ページに何が起こるかを書き出していく作業をした。
一日かかったけれど、普通に読むのでは分からないものが分かってきて面白かった。
あと、構造としては「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」と似ているんだなと思った。
売れるものには、それなりに共通点とリズムがあるんだなぁという気づき。
最近、気づいたこと。
YOASOBIと島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都「直木賞作家」4人とのコラボ企画が去年発表されて、その第一弾が2月16日から始まる。
テーマが「はじめて〇〇したときに読む物語」で島本理生が「はじめて人を好きになったとき」で、辻村深月が「はじめて家出したとき」、宮部みゆきが「はじめて容疑者になったとき」、森絵都が「はじめて告白したとき」とのこと。
宮部みゆきだけ毛色が違いませんかね? となるけど、地味に一番読みたい。
最近、気づいたこと。
カクヨムで書いているエッセイを週一から月一更新に変更した。別に誰に言われてやっていることではないのだから、好きにすれば良いのだろうけれど、少し悩んだ。
三十歳になって、そろそろ三十一歳という中で僕は無邪気に何も考えずにできていたことが、一つ一つできなくなってのを感じる。それが大人になるってことであれば、引き受けないといけないことなんだろう。
最近、気づいたこと。
映画「君の名前で僕を呼んで」を見る。
ツイッターでオススメしている人がいたので、見た。
あらすじとしては「舞台は北イタリアのどこか、1983年。17歳のエリオと、住み込みのインターンとしてアメリカからやってきた24歳のオリヴァーが、美しい夏のイタリアの風景のなか、時に反発し、自らの感情を否定しながらも、惹かれてゆく。」というもの。
内容は素晴しく、男の子同士の恋愛ものとか全然関係なく見るべき映画のように思った。見た後、色々インタビューや映画評論を漁ると本作のプロデューサー、ピーター・スピアーズがパンフレットで語ったと言う、言葉にぶつかった。
「こんな言葉をどこかで聞いたことがある。“自分が若かった頃必要だった人間になれ“ってね。ルカと私は、いろんな意味で、自分たちが若かった時には持ち得ず、でも必要だったような映画を作れたと思う」
ルカは監督のルカ・グァダニーノのこと。
若い頃、未熟で幼かった頃、満たされない気持ちを今も抱えている全ての人が見るべき映画の一本と言って良いのかも知れない。
とはいえ逆に「君の名前で僕を呼んで」は、あまりに理想的で優しく美しすぎる、のは一つの難点とも捉えられる。
最近、気づいたこと。
健康診断に行く前日。
22時から絶食とのことなので、仕事終わりに寄ったスーパーでビールを買い、鶏肉の照り焼きとパスタの明太マヨネーズ和えを作って一杯やる。
久しぶりのビールだからか、22時以降は絶食だからか、やたら酔う。
2月某日
健康診断から帰ってきて、手羽元を煮込んで煮卵を作った。
それから、帰り道に寄った古本屋で買った、ふせでぃ「明日、世界が滅びるかもなので、本日は帰りません。」という漫画を読む。
帯には「ひとりでもきっと生きていける でも――思ったより人は簡単に恋に落ちる」とある。
更に「派遣社員、彼氏なし、忘れられない元カレ&セフレあり――」ともある。
読んでみると、巧いなとなったのがセフレはショートカットの髪が好きで、元カレはロングの髪が好きだった、という描か方をしていてページをぱらぱらめくっても、主人公の女の子の髪の長さで今が現在か過去かが一瞬で分かるようになっていた。
最近、シラスの「さやわかのカルチャーお白洲」を月額購入していて、カルチャーに関する動画を見まくっている。
その中で「理論編(小説 #5)「ざっくり知る!21世紀以降カルチャーマップ」①~日本文学」という回があった。
そこで、文学とはマンガで言ったら「青年誌系」みたいなやつだと分類していた。
さやわか、いわく文学と言っても狭義の文学と広義の文学に分けられるとのこと。
狭義の文学が「登場人物の心情が現代社会の問題と関連的に描かれている」もので、芥川賞とかを取るやつ。
広義の文学が「ストーリー、筋がどうなるかに重点を置いて描いてある」もので、エンタメ小説、大衆文学、直木賞を取るやつ。
この現代の日本の文学は、マンガで言えば「青年誌系」のやつだって言うのに、僕は結構同意するところだった(とはいえ、詳しくは動画を見てください)。
芥川賞も直木賞も大好き人間として、さやわかの分類には同意する。少なくとも2010年以降くらいから、そうなっている。
だいたい今の五大文芸誌のすばるの表紙が呪術廻戦だった時があったからね。
それで良いんだっけ? って混乱しちゃったけど、文学がマンガで言えば「青年誌系」になったんだと考えれば納得できる(呪術廻戦は少年マンガだけど)。
という訳で、最近は漫画を買うのでも、これは青年誌系かな? だとしたら、文学のマップ的に言うとどの辺にあるのかな? と考えながら読むようになった。
で、ふせでぃ「明日、世界が滅びるかもなので、本日は帰りません。」は直木賞を取るにはちょっと筋が弱いし、派遣社員のリアルとか(登場人物の心情が現代社会の問題と関連的)をちゃんと描いているから芥川賞系だな、と勝手に分類した。
なんにしても、「明日、世界が滅びるかもなので、本日は帰りません。」というタイトルは良い。
ちなみに以下で試し読みができるので、ご興味あればぜひ。