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新潮文庫 安部公房『箱男』&映画『箱男』感想

 わたしはあまり小説は好まないのだが、人に勧められて手に取ったこの作品は思いのほか読みやすく、最後まで楽しく読み進めることができた。『箱男』は実験的な構成をしていて、話の展開を追うのが大変な作品であるため、いまいち理解しきれていない部分もあるだろうが、まずは現時点での印象や思ったことを、あくまで感想として残しておくことにする。

 安部公房の作品は、過去に『砂の女』を読み切れずに諦めて以降全く触れてこなかったのだが、いま改めて『笑う月』やこの『箱男』を読んで、実はかなり自分好みの作家なのかもしれないと感じた。『笑う月』は短編エッセイ集であり、安部公房作品を買って最初に開いたのだが、タイムリーなことに『箱男』の新作映画が近々公開されるらしく、また『笑う月』内に『箱男』への言及があったため、『箱男』の方を先読んだ方が良いと判断して、『笑う月』は後に回した。
 一緒に『第四間氷期』も買っているので、『笑う月』と合わせて次に読みたい。

 小説読了後に見に行った映画『箱男』の感想も合わせて書こうと思う。

 

小説

文章表現の印象

 安部公房の文章は、まだ1冊とちょっとしか読んでいないが、理路整然としている印象で、わたしにとってはかなり読みやすかった。記述者の考察のひとつひとつが事細かで鋭く、またヴィジュアル的な比喩が続けざまに織り込まれながらも、内容に明快さがあって、いつもより内容整理の細かな振り返り作業が少なく読めていたのではないかと思う。短編エッセイ集である『笑う月』を読んでいても、考察の緻密さは感じた。フィクションである『箱男』でも同様にその特徴が出ているように思った。

 安部公房は東大医学部を出ているらしく、医に関する記述や表現が際立って詳細だった。『笑う月』にも医に関するエピソードがあり面白かった。理系方向が得意であるというところが、論理立った文章表現の所以であろうか。

 そしてこれは台詞としての効果を狙ってのことなのかはわからないのだが、登場人物のまくしたてるような、詠唱のような淀みない長台詞の怖さ、不気味さがどうも印象に残っている。ある種の発狂に似た表現なのかもしれない。そして記述者の自己暗示のような括弧書きがわりと頻繁に出てくるのもまた印象的だった。

 気に入った表現は177ページの「腐敗のスピード競技だったら、本物の死体にだって負けはしない」。腐敗のスピードを競技にしたとき、それに負けることはないだろう、という比喩表現は滅多に考えつくものじゃない。また、そこに続く死に関する空想的な描写は、夢のようなイメージが連続する面白さがあると同時に、得体の知れない描写の怖さがあり、読んでいて身震いする思いだった。


話の内容に関して

 この『箱男』は内容の構造が独特で、並列に立っているエピソードが同一世界で繋がっていたり繋がっていなかったりする。そこにメタも盛り込まれていて、わたしの知る小説とは違う、一風変わった味を感じることができる作品だった。

 腑に落ちないことが多かったために、Wikipediaで『箱男』の記事を読んでしまった。人によって物語の構造の解釈(主に記述者に関して)が違っていて面白いと思った。記述者にとってどこまでがフィクションなのか、について考えると難しい。正直、内容に関しての良し悪しを判断することは現時点では難しい。表現を楽しみながら読んでいたが、目まぐるしく変化する場面に理解が追い付いていなかったため、大枠でしか把握できていない。

 誰も自分を見ていないということに対する喜びや、それを由来とする自由みたいなものには心当たりがあって、"箱男"のことを他人事とは思えなかった。

 考察に考察が積もっていく、自分好みの作品だった。内容に関しては後日映画を見てまた考えをまとめようと思う。


読了後思ったこと

 [時計に封をした]あたりから『箱男』のSFのような展開と混乱にひき込まれていった。語る人物(記述者)が見えなくて、エピソードの時間軸上の位置が分からなくなる。久々にそういった小説ならではの面白さを感じられたと思う。映像ではなかなかこうはいかないだろうと思う。後日見に行く映画が楽しみだ。


映画

 ! 以降は2024年8月23日公開の映画『箱男』のネタバレが含まれるため注意。またわたしはあまり映画を嗜んでおらず、ほかの作品との比較ができないため、手法の新しさのようなことは分からない。

 映画の公開初日に見てきた。平日の昼間の上映で、かつ内容が内容であったため、客の年齢は全体的に高く集客もまばらであった。しかしその中でも若い女性(おそらく)がペアで2組も見に来ていて、安部公房作品の人気を感じた。物珍しさに見に来ていただけ?


全体を通して

 通しての感想としては、話は概ね原作通りの進行で、原作の混乱や世界観を再現する映像としてはなかなか良かったなぁという感じ。人にフォーカスした構図が印象的で、また終盤にかけてはアート的な美しさを求めた映像になっていた(これについては後述)。

 原作の登場人物の台詞が引用されつつも、登場人物の行動がわたしの思うものと違っている部分もあって、その解釈を楽しむものとして良かった。また、映画の序盤でのモノクロ映像の雑踏や、原作にも挟み込まれていた安部公房が撮った写真、箱男の語り口が、映画が今より古い時代を映しているものだと錯覚させ、以降もずっと時代の新旧が混ざっているような、かなり独特の空気を感じた。これは映画ならではの面白さかもしれないと思った。「箱男を意識したものは、箱男になる。」(このままかどうかは忘れてしまった)という文言が繰り返し強調されていた。

 挿話は上手く本筋の流れに吸収されていて、《Dの場合》の話などは終盤のシーンで意識されていたと思う。原作内で箱男たちに直接の繋がりを持たない挿話は基本的に無視されていて、大筋だけをなぞったものになっていた。

 わたしが気に入っている、安部公房のあの独特な比喩の連続が活かされていると思えた場面は少なく、そこは残念だった(ならどうすればよかったのかと言われると難しいが…)。


気に入った場面・表現ほか

 わたしは偽箱男が箱男になってしまうまでの一連のシーンがいちばん気に入った。これは偽箱男が箱男になってしまう映画なんだなとも思った(それと同時に、箱男が箱男でなくなる映画でもある)。箱男や軍医は登場しはじめから狂人のようである一方で、偽箱男は最初からずっと分別のある一般人として書かれているが、計画の遂行のために箱男に執着するあまり、憑りつかれたように人が変わってしまい、最後には"箱男"として出ていって帰ってこなくなってしまう。原作で言うところの《供述書》の場面では、警察署や一人舞台、黒背景の空間など、さまざまに場所が移り変わり、最後には記述に狂っている偽箱男の場面に戻ってくる。空想的な映像の流れが面白かった。

 偽箱男が箱男からノートの記述者の立場を奪い、軍医の筆跡を真似て書き足していた(もしくは供述書の記述だったか。原作のこの章では軍医が記述者として偽箱男の書いた供述書を書き写していたことになるため、映画内では偽箱男がその軍医が書いたというシナリオから作り上げようとして軍医の筆跡を真似ていたのだろうと思ったのだが、誰の筆跡を真似ていたかまでをきちんと把握できておらず、そもそも文脈が難しいので判断しきれない。違うような気がする。)場面では、筆跡を真似るための高度な装置を手につけ、プログラムが動いているパソコンが映される場面があり、その急なテクノロジーの登場が面白かった。「配信映画でも見てなさい」といったような台詞もあり、端々から現代を感じさせた。

 偽箱男が軍医の行動をなぞって彼女に淫らな行為の再現をさせ、それを外から箱男が覗いているあの場面は、悪趣味でそしてアート的(?)な映像になっていたが、サーカスのような照明に浣腸に悶える偽箱男と全裸で尻を突き出す彼女が並ぶ、あのあまりにシュールな画につい笑ってしまいそうになった。令和に出る映画の映像ではないなと思った(悪い意味ではない)。この映画自体が27年前に一度撮影が頓挫していて、満を持しての公開になっているのも、この映画が新しくも古くも感じる理由のひとつかもしれない。なによりこの映画がPG12なのが驚いた。子供に良い影響を与えそうにない(これも決して悪く言っているわけではない)。

 序盤は箱男がシュールでコミカルに描かれていて、覗いてくる人を睨み返す箱男や"ワッペン乞食"との戦闘シーンなど、笑ってしまうような場面もあった。街の隅や海辺で佇む箱の姿には愛らしさも覚えた。

 中盤以降の、記述者が変わって物語に影響が出てくるところが、登場人物が立場ごとそのまま入れ替わるという形で表現されていて面白かった。そして最終的には、誰でもないということが強調され、より混乱を誘っていた。

 偽箱男が完全な箱男になって病院を飛び出してしまったときに箱男と偽箱男が出会い、箱男にノートが返されるのだが、完全な匿名性が故に区別を失って、箱男の「お前は誰だ」から、箱男の特性によるノートの記述者の実質的な不在が強調された場面が印象的だった。

 音に関して、この映画はけっこう頻繁に、音を突然切って無音にする手法を使っていた。画や言葉に注意を向けるためだったのだろうと思う。通して、ジャンプスケアのような突然大きい音とともに映像が移り変わるようなシーンは無く、全体的に静かなシーン遷移であった。箱男は記述以外では多くは喋らないため、会話の場面では沈黙の時間が長く、より言葉ひとつの重みが増していたように思う。

 人物の顔のアップが画面の中央にくる構図が頻繁に使われており、発言に注意を向けるような作りになっていた。寄りの画が多く、話し合う場面はワンカットで顔を追いかけるカメラワーク(最初の病院の箱男と彼女の会話のところや、自殺偽装の手筈が整ったときの軍医と偽箱男の最後の会話の場面など)が使われていた。終盤には明らかにアートを意識している左右対称の構図や裸で横たわる彼女の画。創作の世界にどんどん入り込んでいくように感じた。

 画面の前のオマエも箱男である、というオチのあとのスタッフロールでは、BGMのピアノ曲とともにさまざまなケータイの着信音が仕込まれていて、見る人を混乱させるものになっていた。周りの人間を"気にする"ように促していたのだろうか。また、クレジットの名前がすべて本人の自署だったのが良かった。


視聴後思ったこと

 映画を見て『箱男』への理解がより深まったように思う。"箱男"は見られることを排除し一方的に見るという行為を達成するための行いなのだと思っていたが、箱の中で記述をはじめてやっと完成するのだと言われていて(わたしはそう解釈した)なるほどと思った。一見、自分自身の存在を否定(といっても社会的な存在をだが)するようである箱男が自身の記録をしているという点に箱男が箱男である所以のようなものを感じた。終盤の場面で病院に彼女と2人で籠ることにした箱男だが、結局は記述への執着が戻ってきて、彼女が出ていってしまうところからも、箱男は書くことをやめない限り箱男の呪縛からは抜け出せないのだろうなと感じた。

︎ また、『箱男』の映画を見るなら、小説は読んでおいた方がより楽しめるのではないかと思う。わからないなあと思いながら小説を読んで、映画で答え合わせ(答えがわかるとは言っていない)するのがいいかもしれない。映画は画として常に面白いかと言われるとなんとも言えない。ワンカットの長く地味な会話シーンも多く、話もいちどあの映像を見ただけで理解するのは難しいと思うため、あらかじめ小説を読んでおいて、答え合わせの感動が得られるように準備しておくといいかもしれない。


総括

 "箱男"は一度意識して考えてしまったら逃れられなくなる呪いのようなものだと思った。いちど箱の感覚を知ったら最後、この部屋もこの街もこの国もまた箱であるとすら思えてしまう。だからむしろ自分の"箱"を広げるのにもっと前向きになってもいいかもしれないと思った。紙の箱を脱ぐことで終わる自由はない。迷路には初めから迷い込んでいた。それに気づくための作品だった。


2024/08/23 さすら


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