きのうペットがしんだ。その気持ちと少し救われた言葉。生き物を亡くした飼い主にかけてはいけない言葉。そして、救われてもいいんだと少し思えたことなど。
14年飼ったインコが死んだ。昨日死んだ。目の前で死んだ。
半年以上つらい闘病をしていて、あれこれ必死になって取り組んで、奇跡的に元気になって、とても喜んで、少し安心していた矢先のことだった。
その時から丸一日経った今までの自分の状態を素直に書くと、正直頭の中にいろんな考えが巡り続けてどこにも着地できず、頭が沸騰したようにぐらぐらしている感じだった。脳内がひどい興奮状態だったと思う。目の前で、急に苦しんで亡くなったのだ。その数時間前までは具合が悪いながらも、私のそばに歩いて寄ってきていた。
思いもよらなかった。とても混乱した。
(悪いことに、かかりつけ医が休診日だった。どうにもならなかった)
死の驚きとショックが少し引いてからは、こんなに泣くのかというくらい、泣いた。
色んなことが脳裏を駆け巡った。「初めてうちに来た日」や「友人と一緒に遊んだ日」、「あの子のおかげで頑張れた日」などのようなメモリアルなことだけでなく、何気ない仕草や声、ふるまい、なんてことない日常のありとあらゆる場面を思い出しては、ただただ悲しくなった。
と同時に、自分の至らなさや、本当に100%大事にできていたといえるのか?そんな自分に悲しむ資格があるのか?こんなに泣く資格があるのか?
そのような自責の念も沢山沸いた。
なんせ、最期の日は、悩んだ末良かれと思ってやった薬と栄養剤を激しく吐いて死んだのだ。あんな姿は一度も見たことがなかった。最後の最期で一番つらそうな姿を目にした。
私が殺してしまったのかもしれない。
そう思うと、どうにも、どこにも、着地できなかった。悲しむ資格がないように思えた。そもそもこんな小さな家に、カゴに、長い時間ずっといて(閉じ込めて)、少し外に出られるだけ。あの子は本当に幸せだったのだろうか。そんなことをふと思う。仕事が忙しく、かまってやれない日もあった。
亡骸に、ごめんねと何度も言いながら泣いた。ありがとうともいったが、ごめんねの方が多かったように思う。
絶対にあとでもっと悲しくなるからと思って、毎日お世話の時間に鳴るよう設定しているアラームはすぐに消した。そんな小ずるく情けない自分にも更に嫌気がさす。
あれをしてやればよかった、もっとこうしてやればよかった。
あれがいけなかった?どれが正解だった?でも対処しなかったらどうなってた?答えがわからない。
頭の中に、たくさんの現実の場面と想像の場面とが沸き出て、それぞれが思い切り投げつけたスーパーボールみたいに四方八方に弾け散り、行き交い、収拾がつかない。
昨日が最期だと知っていたら、もっと長く部屋を飛ばせてやった。
欲しがっていたおやつも、思う存分食べさせてあげたのに…
部屋のいたるところに、あの子の好きなものが使われないまま残っている。
つらい。
こうしてあれこれ思い出したり、いろいろこねくり回して涙し、考え巡らせるけど、一番は、ほんとうにシンプルに、「いなくなって寂しい」。
あの子がいなくなって本当に寂しい。もうあのふわふわに触れないなんて。本当にかわいい子だった。本当に。
体があの子の形を覚えていて、あの子の形で心に穴が開いてしまっている。ほかの似たようなものでは、どうやって塞いでも、かならず隙間から悲しみが漏れ出してくる。
同じ種類の生き物はこの世に沢山いる。それでも、あの動きをする、あの反応をしてくれる、一緒に過ごした思い出がある、撫でると心底幸せそうな顔で私を見つめる、でも少し変なところを撫でるとすぐに怒る、あの子はあの子だけだ。悲しい。もう会えないのか。さわれないのか。
気づけばこのように自分サイドに寄って思い出してしまうことがまた「自分に都合がいい」ように思えてきて、着地できそうだった思考の機体はまた飛び上がり、上空で負の旋回が続く。どう収めていいのかわからない。罰を受けなければならない気がどこかしている。
こうやって混乱したまま、なんの答えにも到達せず、させず、少しづつ、忘れていくのだろうか。
それは、楽にはなるだろうけど、とても悲しいことだ。なんだか、一番悲しく嫌なことだと思った。
一番胸に来たのは、埋葬の時だった。
家族と話し合って、火葬は取りやめて、どこにもやらず、庭の木の下深くに埋めてやることにした。何時間かお別れをしたあと、お経も上げて、土を掘って亡骸をそのまま埋める準備をした。
14年間そばにいて、さっきまで生きていた、あの子が、一度もカゴから出して外になんて居た事がないあの子が、カゴから出てそのままの無防備な姿で、一度も触ったことなんてない土の前にいる。あの子と背景とのコントラストがあまりに異様な光景で、また脳が混乱した。自分にとってあまりに異質だったのだ。
「ちょっと待ってかわいそうすぎる、土のなかにいるなんておかしい、さっきまで…」と泣いてしまって、一旦土に入れる手を止めた。それでも、休ませてやらないわけにはいかない。気持ちを整えて、そっと収めて、いろんな花や御馳走で飾ってゆっくりゆっくりやさしく土をかぶせた。
急変する前、投薬の際、嫌がって私の指をかんだ。とても力が強くて、これから死ぬとは思えないほどだった。少し指から血が滲んだ。半年以上の闘病中、投薬では何度もかまれたりひっかかれたりしたが、これほど強く嚙まれたのは覚えている限り一度あるかないかだった。
あの子はもういないのに、私の左の人差し指には、その傷だけが残っている。たのむからこの傷は消えないでほしい。まだ繋がっていたい。
それでも、その小さな小さな傷は、少しずつ色も枯れ、より小さくなりつつある。
この傷を治してしまおうとしている自分の体がとても憎い。
ペットロス。これまでなんども聞いてきた言葉。
みんな、こんなのよくやってるな。
よくこんな思いをしながら社会生活やってのけてるな。
えらいよみんな。私はどうすればいい。
この死の話を誰にするか、とても悩んだ。
闘病のことを知ってくれてる友達と、あとはよく知るフォロワーさんだけに話した。
その時もらった言葉
「絆は永遠に途切れることなくつながっている」
この言葉に、私は少し荒れた心を撫でてもらったような気持になった。
ペットロスで一番悲しいのは、あの子は「もういない」「どこにもいない」「生活から消えた」「私の世界から消えた」そんな「存在の圧倒的な不在」だと思う。
この言葉はそんな「完全なる不在」に胸と頭をかき乱される私に、そんな愚かな私とあの子の間に、一本の糸をつなげてくれたようだった。
私の好きな本に『さよならのあとで』という本がある。
そこにも似たような言葉がある。
あの子は 「 ただ静かに となりの部屋に移っただけ 」。
大事なものが消え去って、世界がごろんと変わってしまったようなひどい気分になるとき、これらの言葉は落ち着きと静かな静かなやさしさをくれる。
そうか、大きく変わったんじゃない。まだつながったものはきっとあるんだ。
大丈夫でいていいんだ。
大丈夫でいないことが。とちくるったり、自分をいたずらにいじめることが愛していたことの証明になるのではないんだな。
言葉の上だけだとしても、こんな言葉が存在してくれるのは大変ありがたいことだと感じた。
埋葬を終え、使っていた部屋をあの子だけがいない状態で見るのがつらすぎてそのままにしておくことができず、私はすぐに片づけを始めた。
大きめのインコを飼っている人は分かると思うが、エアコンのフィルターが脂粉と細かな綿毛でしばしば白く目詰まりする。フィルターを外して、まどを開けた。その瞬間。
向かいの空のど真ん中に、大きな大きな、あの子とそっくりの形をした雲が浮かんでいるのが目に飛び込んできた。
本当に、あの子が羽を広げて思い切り飛んでいる姿そっくりだった。間違いなく。
はた目にはこじつけのおわらいぐさかもしれないが、私にはまるっきり、あの子にみえたのだ。
私は名前を呼んで泣き崩れた。おいおい泣いた。
嘘でも、明るいきれいな日暮れの大空にあの子が羽ばたいていっているようで、自由に空を飛べているようで、また少しだけ勝手に救われたのだ。
雲を眺め、名前を呼びながらしばらく嗚咽した。
それが冒頭の写真です。
全くまとまらない文章。読んでくれた方がいたら大変申し訳ない。しんどくてほとんどきちんと読み返せなかった。
でも書かなきゃと思いました。愚かに忘れてしまう前に。
読んでくれてありがとう。
この14年間を、そして昨日の出来事を思い出しながら書くと、喉はつまり、涙が流れ、頭は湧くし手は冷えきってかじかんうまく動かず、吐き気はしてきてふらついてしまう。でも残したかった。
兄弟にこの死を伝えたところ、あっけらかんと「かわいそうだね、寿命だったの?」と聞かれた。兄弟はほとんどあの子に接したことがないから、仕方ないのかもしれない。他人の範疇に存在している死とはそんなものだ。
しかしこの質問は、飼い主にとってはとてもきついものなんだとこの時初めて知った。
「「寿命だったの?」」
寿命だったのか何だったのか、わからないからだ。その子のもって生まれた本当の寿命は、誰にもわからない。
そもそも自分の不手際のせいで何年もかけて命を縮め続けたのかもしれない。小動物は特にそれがわからない。この14年間の何が正しくて、何が間違いだったのか、回答も証明もできない。
そうして飼い主は自分を責める。
「なんで死んだの?寿命だったの?苦しまなかった?」
この言葉は、飼い主が自分から言わない限り、今後一切聞かないようにしたいと思った。本当の本当は誰にも分からないからだ。分からない場合、たいていの人は、自分を責め、簡単には許さないと思うから。
かわりに、「それは寂しくなるね。でも今隣にいないだけで、ずっと繋がってるからね」
私は今後誰かに、そういってあげたい。
もし今大切なものを亡くして悲しんでいる人がいたら、上の言葉を送ります。そして一緒に悲しみましょう。それからなるべく、いつもどおりの日常を過ごしましょうね。一日一日。悲しいままでいいと思うから。