地方映画史研究のための方法論(37)パラテクスト分析⑤アメリー・ヘイスティのデトリタス論
見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト
講座「映画を見た記憶、見逃した記憶──鳥取市民のメディア体験」
2024年9月22日(日)14:00-15:00、鳥取市歴史博物館(やまびこ館)が企画する「おうちだにアカデミー」の一環として、講座「映画を見た記憶、見逃した記憶──鳥取市民のメディア体験」を実施する。1980年代から1990年代にかけて、映画館からレンタルビデオ店へと「見る場所」が変容しつつあった時代に注目し、その時期の鳥取市民のメディア体験がいかなるものであったのかを検証したい。
見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト
「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」、「見る場所を見る3+——親子で楽しむ映画の歴史」を開催した。
2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストア/amazon.co.jp)
地方映画史研究のための方法論
「地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんと共同で行っている研究会・読書会で作成したレジュメを加筆修正し、このnoteに掲載している。過去の記事は以下の通り。
メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論
観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」
装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法
「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』
都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論
初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画
抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論
大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論
パラテクスト分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」
(34)ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ』
(35)ジョナサン・グレイのオフ・スクリーン・スタディーズ
(36)ポール・グレインジによるエフェメラル・メディア論
(37)アメリー・ヘイスティのデトリタス論
動画メディア研究におけるデトリタス
アメリー・ヘイスティ(Amelie Hastie)
アメリー・ヘイスティ(Amelie Hastie)は、1666年生まれの映画・メディア研究者。映画とテレビの理論、歴史学、フェミニズム、物質文化を主な研究領域とする。ウィスコンシン大学ミルウォーキー校で博士号を取得し、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の准教授(映画&デジタルメディア)を経て、2010年からはアマースト大学の教授に着任し、映画&メディア研究プログラム創設に携わった。デューク大学出版局が発行する『カメラ・オブスクラ Camera Obscura』を初めとして、映画・メディア研究に関する複数の学術雑誌の編集委員を務めるほか、2013年から2019年までは『フィルム・クォータリー Film Quarterly』誌で「ヴァルネラブルな観客 The Vulnerable Spectator」と題したコラムの連載を行っていた。
主な著作に『好奇心の戸棚——女性・回想・映画史 Cupboards of Curiosity: Women, Recollection, and Film History』(デューク大学出版局、2007年、未邦訳) 、『二重結婚者 The Bigamist』(BFIクラシックス、2009年、未邦訳)、『刑事コロンボ——秒読みの殺人 Columbo: Make Me a Perfect Murder』(デューク大学出版局、2024年、未邦訳)など。
デトリタス(Detritus)
ヘイスティは、『視覚文化ジャーナル Journal of Visual Culture』6巻2号に掲載した「イントロダクション:映像とデトリタス——エフェメラ、物質性、歴史 Introduction Detritus and the Moving Image: Ephemera, Materiality, History」(2007年、未邦訳)において、従来のメディア研究では見落とされてきたり軽視されてきたりした様々なエフェメラ(儚いもの)に目を向けることの重要性を訴えるために、新たに「デトリタス Detritus」という概念を導入している。
デトリタスは、主に生態学や生物学で用いられる学術語で、動植物や微生物の遺骸、排泄物、その他の有機物が分解されることでできる粒状の物質を意味する。より手短な表現にするなら、「残骸」や「有機堆積物」と訳すことができるだろう。デトリタスの具体例としては、森林の地表に堆積した腐葉土が挙げられる。周辺の木々が落とした果実や落ち葉、枯れ木などが微生物によって時間をかけて分解され、豊かな土壌を形成するのである。
棄てられるべきではない廃棄物——デトリタスの物質性とエフェメラリティ
動画メディア研究におけるデトリタスは、私たちが何らかの動画を視聴した後に残る記念品や土産物のようなもの(Souvenir)として、見たり、触れたり、匂いを嗅いだりできる対象として現れる。
具体的には、映画チケットの半券や時代遅れのテレビ、コンピュータなど、コレクターの収集物になるか、さもなければ廃棄物になるようなものが挙げられる。あるいは、スクリーンテストやアウトテイク、テレビ広告、現代美術のインスタレーション空間など、一時的な形態や一時的な場所として具現化することもある。また、映画館やテレビの視聴環境、動画アーカイヴなどに関連して排出される「廃棄物 trash」として認識されるものも、デトリタスに加えることができる。例えば劇場で購入したポップコーンやキャンディーの容器、過去のテレビ番組表、腐食したビデオやフィルムなどである。
ヘイスティがこれらを「廃棄物 trash」と呼ぶ代わりにデトリタスの語を用いるのは、前者はすでに、メディア研究において「低俗」なポップカルチャーを指す言葉として用いられてきた経緯があるからだ(他方のデトリタスは、もう少し中立的な意味で使用され、「低俗」や「高級」といった含みは特にない)。
加えてヘイスティは、デトリタスが「破片」や「残骸」、「廃棄物」といった意味を内包する語であること、すなわち、物質的なものとエフェメラルなものの両方に結びついた概念であることを強調する。メディア学者のメアリー・デジャーディン(Mary Desjardins)がエフェメラルなものについて論じているように、デトリタスもまた「棄てられるべきではない廃棄物 throw-away which is not thrown away」なのである(「エフェメラル・カルチャー/eBayカルチャー——映画コレクションとファンの投資」『日々のeBay——文化/コレクション/欲望 Everyday eBay: Culture, Collecting, and Desire』所収、ニューヨーク・ラウトレッジ、2006年)。
以上のようにヘイスティは、前回紹介したポール・グレインジのエフェメラル・メディア論と研究対象や問題意識を共有しつつも、その対象が持つ物質性にさらに重点を置いて論じることに大きな特徴がある。デトリタスはいかに収集されるのか、いかに流通するのかを詳しく見ることで、視覚メディアのエフェメラルな性質や体験に触れられるばかりでなく、それに伴う物質性の感覚を維持・回復することもできると主張するのだ。
デトリタスの発見法的価値
ヘイスティは、メディア研究者のアンナ・マッカーシー(Anna McCarthy)が何かしらの講演か、あるいはもう少し私的な場で述べたという「エフェメラリティの象徴としてのポストイット」という発言を紹介する。確かにポストイットは、ちょっとしたメモを書き留めておき、用が済めば気楽に捨てて構わないというエフェメラルな特性を持つが、ヘイスティはそれに加え、マッカーシーの言葉をノートに書き留めておいたことが、メディア研究におけるデトリタス概念を定義するための手助けとなったと言う。彼女はいつも持ち歩いているノートやちょっとした紙切れに、電車内やバー、台所や学術会議の会場など、様々な場所で閃いた思索の断片をその都度書き留めていた。それらを自らのアイデアの物質的証拠として、後から翻訳したり、解釈したり、つなぎ合わせたりすることで、デトリタス概念は構築されたのだ。
ヘイスティはこのエピソードを踏まえ、論集『視覚文化ジャーナル』6巻2号の多くの著者と共有する研究の方法論を説明しようとする。すなわち、抽象的な議論から始めるのではなく、特定の物質的な対象(デトリタス)を詳しく分析することや、それにまつわる体験・実践を議論の出発点に据えること。特にその技術的側面に焦点を当てながら、デトリタス化する以前のメディアや視聴体験のありようを想像・復元し、そこからより広範なジャンルや歴史などの議論に展開したり、様々な学問分野を横断した間テクスト的なアプローチによる分析を行うことを推奨するのである。
デトリタスは、何かしらの経験や記憶を保存ないしは体現した知識のカプセルであり、それを論じる文章の構造や、著者の語り口にも具体的な影響を与える。だからこそ、別のアプローチでは決して辿り着けない結論や、新たな発見に至る可能性もあるのだとヘイスティは主張する。これまでは見落とされたり軽視されたりしてきたエフェメラルなものが、メディア文化やメディア研究における新たな考察の対象を指し示し、その重要性を探究するための機会を提供してくれる。デトリタスには、こうした発見法的な価値が備わっているのだ。
暗闇の中の食事——理論的コンセッション
間テクスト的な経験、間テクスト的なアプローチ
ヘイスティは、『視覚文化ジャーナル』6巻2号にもう一つの論稿「暗闇の中の食事——理論的コンセッション Eating in the Dark: A Theoretical Concession」を寄せている(2007年、未邦訳)。そこではデトリタス論の一環として、映画館内での食事の機能と効果についての考察が行われている。初めに紹介されるのは、1989年5月の日曜日に友人とマンハッタンの映画館タリア・ソーホー(Thalia SoHo)に出かけた時のエピソードだ。
上映中、ヘイスティは友人からラップをかけたケーキを手渡された。暗闇の中で食べたそれは、これまで食べた中でもっとも美味しいケーキの一つだったという。その日見た映画は『ブルーベルベット』(1986)と『ドクターTの5000本の指』(1953)だったが、同じ一日の中でもっとも記憶に残っているのはケーキを口にした瞬間。そして、上映後に場内の照明が明るくなった時、クラムや粉砂糖が服の上にボロボロとこぼれ落ちていたことだった。後日、ヘイスティはそのケーキがエンテンマン(Entenmann’s )のチョコレートチップローフであることを知った。
いずれにせよ、現在からその日の映画鑑賞体験を振り返るためには、ケーキを食べた体験を語ることが不可欠であろう。映画を見ることと、見ながら食べることには、存在論的な一致があるとヘイスティは言う。両者は共に一時的でエフェメラルな体験であり、ケーキを食べるための手と口のリズムは、何らかのかたちでスクリーン上のイメージを補完し、一つの映画鑑賞体験を作り上げているのだ。
劇場内で食べたケーキという物質的対象にまつわる個人的な体験から論考を始めることによって、ヘイスティは、スクリーンを見つめる行為を特権視する映画研究の規範に異を唱える。彼女の自伝的エピソードは、従来の観客モデルへの身体的介入として機能し、観客を「見る主体」として捉えるだけでなく、「食べる身体」や「語る主体」としても捉える新たな研究の枠組みを与えてくれるだろう。
メディア・文化理論研究者のチャールズ・アクランド(Charles Acland)も、映画鑑賞を単なる視聴行為以上の実践として捉えている(『スクリーン・トラフィック——映画、シネコン、そしてグローバル文化 Screen Traffic: Movies, Multiplexes and Global Culture』デューク大学出版局、2003年、未邦訳)。映画上映とは「食事をする機会であり、通常の食事習慣を無視したり、食事に過剰な支払いをすることを知りながら楽しむ場であり、スナックや飲み物をこっそり持ち込む場であり、計画的・即興的な社交、仕事、デート、性的な遊び、ゴシップ、座席の取り合いといった行為が行われる場」(p.57)なのである。
以上のように、映画を見ることが間テクスト的な経験であることを踏まえるなら、それに対する研究も、心理学や現象学など様々な学問分野の方法論を横断的に結びつけた間テキスト的なアプローチで行うことが必要になるだろう。
映画館における食事の歴史
メディア・映画史研究者のダグラス・ゴメリー(Douglas Gomery)が論じるように、映画鑑賞は古くからスナックと共にあった(『共に享受する喜び——アメリカの映画上映史 Shared Pleasures: A History of Movie Presentation in the US』BFI、1992年、未邦訳)。その始まりについては諸説あるが、アメリカの映画館で売店(Concession)が定着したのは1930年代初頭のことであるという。大恐慌に見舞われた映画館の興行主たちは、入場料以外の新しい収入源を探し求め、その答えを映画館の外に見つけた。観客が近所の駄菓子屋で買ったスナックを持ち込むのを禁止し、代わりに劇場のロビーでソフトドリンクやキャンディ、ポプコーンの販売を始めたのだ。
映画館で販売されるポップコーン
また映画・テレビ研究者のジェームズ・ライオンズ(James Lyons)は、映画館の経営者たちがただ収益のためにフードを扱うだけではなく、劇場内で食べることを象徴的な意味を持つ行為としても意識していたと指摘している(「ポップコーンはいかがですか?——フードと映画鑑賞の体験 What about the Popcorn? Food and the Film-Watching Experience」『リール・フード——映画と食べ物についてのエッセイ Reel Food: Essays on Food and Film』所収、アン・L・バワー編、ラウトレッジ、2004年、未邦訳、pp.311–333)。劇場内での食事は、映画鑑賞の社会的・文化的な意味を形成するためにも用いられてきたのだ。
なぜ映画を見ながら食事するのか——心理学・現象学的動機
続いてヘイスティは、観客はなぜ映画を見ながら食事をするのかと問い、その心理的・現象学的な動機を検討する。
映画・哲学研究者のエレナ・デル・リオ(Elena del Rio)は、モーリス・メルロー=ポンティやヴィヴィアン・ソブチャックの研究を参照し、観客の「生きられた身体」の経験に関する現象学的な観点から、クリスチャン・メッツやジャン=ルイ・ボードリーらによる精神分析的映画理論を批判している(「スクリーンの基盤としての身体——アトム・エゴヤン『スピーキング・パーツ』における技術の寓話 The Body as Foundation for the Screen: Allegories of Technology in Atom Egoyan’s Speaking Parts」『カメラ・オブスクラ』38号、1996年5月、pp.93–115、未邦訳)。曰く、メッツやボードリーは映画(館)を超越的かつ全能的な技術的装置と見做し、それが映画鑑賞時の知覚や認識を全面的に決定する要因になると主張することで、観客の能動性や身体性を取り逃がしてしまっているというのだ。
だがヘイスティは、メッツの「重要なのは、多くの人びとが義務づけられているわけでもないのに映画館に出かける理由を問うことである」(『映画と精神分析——想像的シニフィアン The Imaginary Signifier: Psychoanalysis and the Cinema』インディアナ大学出版局、1982年、p.80)という発言に注目し、そこに受動的でも非身体的でもない観客モデルを読み取っている。誰に強いられるでもなく繰り返し映画館に通うことは、それ自体が観客の能動性や、映画鑑賞への強い渇望を示している。それは生理的な飢えではなく、感情的な渇望であるという点で、心理学(精神分析学)と現象学双方の考察対象であると言えるだろう。
ここでヘイスティは、メッツの問いを拡張し、「なぜ多くの人びとは繰り返し映画館で食事をするのか」を問う(p.289)。映画鑑賞と同様に、食事もまた、必ずしも生理的な必要性に基づくのではなく、心理的および現象学的な渇望感からそれを求めることがあるのだ。
固有の体験としての食事——上海で食べたポップコーンの記憶
映画研究者たちは、観客がまったく同じ映画体験を繰り返すことは決してないと主張してきた。同じ作品を見ても、鑑賞する環境や状況に応じて、体験のありようは毎回異なったものになるからだ。
では、同じ問いを映画館内での食事に向けるとどうだろうか。私たちは通常、何の映画を見たかについてはよく考えるが、鑑賞時に何を食べたか、どの座席に座ったか、どうやって劇場に行ったかについて、深く考えることはあまりない。だがそれにもかかわらず、映画館内での食事について、具体的な記憶を思い出せるとヘイスティは言う。
その具体例として、彼女は2006年5月に、上海の高級映画館・UME新天地国際影城で感動を覚えるほど完璧なポップコーンに出会ったエピソードを紹介する。そのポップコーンはカラフルで、甘い味付けがなされており、またシロップがコーンを柔らかくしているために咀嚼音が気にならない。ゆっくり食べるのに適したサイズや量、相対的に低いカロリーも、映画鑑賞のお供にぴったりだった。
彼女がその日見た映画は、ハリソン・フォード主演のアメリカ映画『ファイアウォール』(2006)だった。もちろん同じ作品を上海以外の場所で見ることもできるし、ポップコーンだってどこでも食べられる。だが映画鑑賞や食事という日頃から慣れ親しんだ行為は、却って自分が今、未知の空間に居ることを強く感じさせたという。上海の映画館でポップコーンを食べることで、ヘイスティは国家と国家、都市と映画館、過去の経験と現在の体験など、様々な空間の「間」にいる感覚を味わったのだ。
後日、ヘイスティは上海での映画鑑賞と食事の体験を再現すべく、別の都市の映画館でも甘く味付けされたポップコーンを探し求めたが、いずれも期待外れに終わったという。この事実は彼女に驚くべき発見をもたらした。すなわち、私たちは見るもの(映画や映画の見方)に対してだけでなく、食べるものに関しても、知覚的・感覚的な習慣や期待——過去に味わい、親しみを持ったものに再び出会いたいという欲望——を持っているということだ。
映画鑑賞と食事の相互作用——地理的・歴史的文脈の意識
続いてヘイスティは、映画鑑賞と食事の相互作用がもたらす体験について論じる。ニューヨークの映画館サンシャイン・シネマ(Sunshine Cinema)から数ブロックの距離にある駄菓子屋エコノミー・キャンディでは、2006年夏に「映画鑑賞用パック」としてM&M’sのチョコレートが販売されていた。M&M’sは第二次世界大戦中に兵士向けの開発されたチョコで、手の中では溶けず、口の中で溶けるため、映画館で食べるスナックの定番にもなっている。M&M’sを食べることは映画鑑賞の習慣に溶け込み、本能的で自然な行為となっているため、食べる行為に伴う身体的な実体感も希薄である。
だがふとした瞬間に、映画鑑賞と食事の物理的な側面や、社会的な側面を意識させられることがある。ここでヘイスティが取り上げるのは、パリ6区・サン=ジェルマン=デ=プレのUGCシアターで友人と『ミッション:インポッシブル3』(2006)を見た日のエピソードだ。作中、世界規模の活躍を見せるトム・クルーズがパリや上海を訪れたり、ローレンス・フィッシュバーンが偶然セリフでチョコレートについて言及したりした時、ヘイスティは否応なく、自分自身が今どこにいるのかを意識させられたという。パリという国で、グローバル資本主義や帝国主義の象徴とも言えるようなハリウッド大作を、同じく世界中で売られているM&M’sを食べながら鑑賞しているという事実に、恥いるような感情を抱いたのだ。
さらに言えば、映画鑑賞と食事の相互作用は、作中の物語やモチーフから直接連想されるようなものに限らない。現象学的映画論を提唱するヴィヴィアン・ソブチャック(Vivian Sobchack)は、映画鑑賞において、観客は画面上のものに触れられないことから生じる曖昧さの感覚を埋めるため、視覚体験と物質的体験の接続を模索し、自分自身の肉体、もしくは自分自身が主観的に感じている「生きられた身体」に意識を向けるよう促されると述べている(『肉体の思考——身体化と映像文化 Carnal Thoughts: Embodiment and Moving Image Culture』カリフォルニア大学出版局、2004年、未邦訳、pp.76-77)。この時、映画館内で食べるスナックは——食べるリズムそのものを通して——画面上のイメージと自己の身体の物質性を媒介する役割を果たすのだ。
またヘイスティは、別日に見た映画『マイアミ・バイス』(2006)のエピソードも紹介している。同作の複雑なプロットや混乱を招く時空間の描写、不可解な登場人物の扱いに付いていけなくなり、理解不能だと感じたヘイスティは、映画の微細なディテールに注目したり、持ち込んだスナックに意識を向けたりすることで落ち着きを取り戻し、気を紛らわせることにしたという。だがその一方で、この日劇場に持ち込んだチョコレートのレヴェルズ(Revels)は、M&M’sと異なり形状が不均一で、またその見た目からは、6種類のフレーバーのうちどれが当たるかが分からないという点で、映画の理解不能性と一致してもいた。
このようにして、映画館内で食べるスナックは、映画内部の体験と外部体験を仲介して結びつけたり、移行させたりする。映画と食事の相互作用は、感覚的な体験を豊かにし、映画鑑賞の体験をより深める役割を果たすのだ。
デトリタスを通して見る——ストロー代わりのレッドバインズ
ヘイスティは、映画館での飲食に関する歴史的および地理的な文脈に加え、美学的な考察も行っている。
映画史・文化史研究者のアネット・クーン(Annette Kuhn)によれば、「美的契機 aesthetic moment」とは、芸術作品と一体化した感覚を得るような体験である(「閾(しきい)——映画としての映画と美的体験 Thresholds: Film as Film and the Aesthetic Experience」『スクリーン』第46巻第4号所収、2005年、pp.401–414)。この体験は、境界を越えて別の現実に入り込んだ後、再び「家 home」に戻り、また新たな気持ちで再生する過程までを含む。この定義を踏まえ、ヘイスティは、映画館内での食事が映画鑑賞にいかなる影響を与え、美的体験にいかなる寄与をするかを問うている。
ヘイスティの恩師である美術史家のパトリシア・メレンキャンプ(Patricia Mellencamp)は、アート映画の上映か否かを判断するには、上映中に観客が食事をしているかを見れば良いと語ったという。この発言は、人びとが映画鑑賞に対して持つ期待や信念を端的に示している。一方で、映画鑑賞はしばしば娯楽やレジャーの一形態であり、食事もまた娯楽的な楽しさを伴うものと見做される。他方でアート映画や実験映画は、一般的に食事を伴わず鑑賞されることが期待される。美術館など公共施設での上映や、教育目的の上映も、厳粛かつ清潔な場であることが求められ、映画を見ながら食事をする観客は少数派だろう。
こうした複数の空間の文脈を組み合わせた例として、ヘイスティは、オレゴン州ポートランドのケネディ・スクール・シアター・パブ(Kennedy School Theater-Pub)を挙げている。同館は、マクメナミンズ(McMenamins)という企業がリノベーションした施設の一つで、かつては小学校だった(1930年代には視聴覚教育に力を入れていたという)。現在はホテルやカフェ、バー、そして映画館としての利用が為されている。映画館は旧講堂に位置し、快適な椅子やソファが並んでいる。広大だが、家庭的なリビングルームのような雰囲気である。映画は二番館としての上映を行っており、入場料やフードも安価。カフェでピザやケーキ、ポップコーンなどを購入し、劇場に持ち込むことができる。このように、ケネディ・スクールは学校・酒場・家庭といった異なる空間を組み合わせ、それらを融合した体験を提供しているところに特徴がある。また上映作品も、マクメナミンズが経営する他の映画館で上映される作品と文脈的に関連づけるといった工夫が為されている。
ヘイスティは、同館で購入したレッドバインズ(Red Vines)を、ウォッカトニックのストロー代わりに使ったエピソードを語っている。彼女はこの奇妙な組み合わせに夢中になると同時に、レッドバインズのストローを——映画の隠喩であるような——独特な光学装置としても捉えていた。ストローをスコープのようにして覗くと、いびつな円形のフレームが視界を制限すると共に、新たな物の見方で世界を眺めることができる。同様に、特定の物質的対象(デトリタス)をスコープ代わりにして映画鑑賞体験を観察することで、これまでは気づくことができなかったような文脈(コンテクスト)や、間テクスト的な結びつきを発見することができるのだ。