#113 震災の日に〜ローソクを見つめた夜〜
今日は東日本大震災の日ですね。今日は震災の日によせて、覚えていることを記しておこうと思います。上の画像は、震災の翌週の3月18日、住んでいたエリアが計画停電の対象となった時、家のリビングで灯したローソクです。最寄りのJRの駅を降りたら、目の前が真っ暗で街がなくなったようだったことを覚えています。
阪神・淡路大震災、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災
僕は兵庫県神戸市の出身なので、1995年の阪神・淡路大震災では自宅が少し被災した(扱いとしては「一部壊」)。2001年のアメリカ同時多発テロでは、2機目の飛行機がワールド・トレード・センターに突入する瞬間を中継で見た。東日本大震災でも、自宅でテレビをつけた直後、津波が人や車や家屋を飲み込んでいくのをリアルタイムで見た。埼玉県の自宅でもリビングの棚が倒れ、揺れの最中は命の危険を感じた。
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世界へ発信
当時は、ハンドメイドフルートを作っている楽器メーカーで海外営業の仕事をしていた。東日本大震災のニュースはすぐに世界中に伝わるので、震災後の仕事は「我が社は無事である」ことを30カ国以上ある海外代理店に発信することだった。
僕が最初にしたことは、東京電力が発表した措置、「計画停電」は英語で何というのかを調べることだった。計画停電、あるいは輪番停電は Rolling blackout というのだと初めて知った。勤めていた会社が属している電力網の中に、幸運にも東京都水道局の浄水場があったため(東京都に水を供給する浄水場が埼玉県にある)、計画停電の対象とならず、会社の業務は震災後も途切れることなく続けることができた。
社長その他と内容を打ち合わせて、英語の文面は僕が作成し、一斉送信した。その間にも次々とお見舞いのメールが入ってきたのを覚えている。
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ドイツ、フランクフルトへ
2011年は、クラシック音楽の楽器関連では世界最大のトレードショー(業界者向け見本市)が4月はじめにドイツ、フランクフルトで開催されたので、震災の翌月にドイツへ出張した。フランクフルト空港から中央駅近くのホテルまでのタクシーの中で、中東出身の運転手に聞かれたことを今でも覚えている。
ドイツのタクシー運転手が、「原子力発電は本来政府主導なはず、それなのになぜテプコばかりが責められるのか?」と質問してきたのだ。そんなことは考えたこともなかったので、きちんと答えられなかったのが悔しかった。
トレードショーでは各国代理店との個別ミーティングを行ったが、どこからともなく「日本の本社工場へ、応援メッセージを送ろう」ということになり、各国代理店チームのビデオメッセージを iPhone で撮影した。日本に帰国後、メッセージを繋げて日本語字幕をつけ、会議で全社員に見てもらった。
震災で親戚を無くした社員もいたので、とても好評だった。どこの国かは忘れたが、「日本は『日出ずる国』(the Land of the Rising Sun)だから、きっと大丈夫」と言ってくれたのが印象的だった。
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みんな話せているのだろうか
考えてみると、上に書いたことを話したのは、家族や同僚以外では、今日が初めてだ。埼玉県は福島県から遠く離れているので、被害らしい被害はなかった。それでもあの日の記憶ははっきりしている。
知り合いには福島県出身の人が多くいるのだが、みなさんあの日の話はするのだろうか、話したいと思った時、話せる相手はいるのだろうか、と思う。実際は、聞く側の準備はできていても、話す側の準備ができるのにずっと時間がかかるのだと思う。話したいと思ったら少しでも早く話せるように、聞く側は何ができるだろうか、と考える。
今日もお読みくださって、ありがとうございました🕯️
(2024年3月11日、震災の日に)