看護師だった母のこと
8月になり、母の何度目かの命日が訪れる。
大人になるまで、私は母が好きではなかった。
はっきり嫌いとまではいかなくても、自分の母と周りを比べて子供の頃からコンプレックスを感じていた。
母は看護師だった。
私が幼い頃から両親は共働きで、私と姉は当時でいう鍵っ子だったので学校から帰ってくると夜までひとりで留守番していた。
年が離れた姉は中学で部活をやっていたから、帰宅は母より遅かった。
留守番は苦ではなかったけれど、母が仕事の日に友達と遊びに行けないのが嫌だった。
ふだんの母は化粧っ気もなく、いつも疲れた顔をしていた。
当時けっこうな問題児だった私はクラスで度々騒ぎを起こして何度も学校に呼び出されたが、私は級友の母親と比べて若くも美しくもないのにすっぴん普段着で職員室に入ってくる母を見られるのが恥ずかしかった。
私が体調を崩すと、すぐに勤務している内科の病院へ連れていかれた。
院長先生や他の看護師さん達は優しかったが、大して悪くもないのに待合室で並びもせず受診するのを申し訳なく思うようになり、やがて具合が悪くても母には言わなくなった。
私が病院へ行きたがらないのを知ると、今度は家に使い捨ての注射器を持ちこんで腕にブスリと刺した。
職権濫用も甚だしい。
今なら(当時でも)絶対にダメな行為だろう。
新興住宅地には病院が少なく近所のほとんどが母の内科へ行っていたから、学校で私の母を知らない者はいなかった。
友達からお前の母ちゃんに病院で説教された、なんて言われるとそれもまた苦痛だった。
いろんな理由で家が嫌だった私は中学に入ると憑き物が落ちたように大人しくなり、それまで全くしていなかった勉強をはじめた。
それは家から離れた国立の学校へ進学すれば、寮生活のため出ていけると考えたからだった。
母が学校から呼び出されることもなくなった。
でも疲れた様子は変わらない。
むしろ余計に疲れが増している感じさえした。
結局国立への進学は叶わず近くの公立校へ入学した私は、高校を卒業するとなし崩し的に家を出た。
大学の学費以外は家賃と生活費を自分で賄わなければならなかったが、引き換えに手に入れた自由はお金以上の価値があるように思えた。
当然バイトだらけの生活になって大学へも行けず、実際には自由な時間など無かったのかもしれないが。
大学時代、実家へは滅多に帰らなかった。
だから、就職のため住んでいた部屋を引き払い一時的に実家へ戻ったとき、両親が数年の間にすっかり老け込んでいるのを見て目を疑った。
2人共そろそろリタイアを考える年齢になり、私が就職したあとはのんびり暮らすのだと母は話した。
やっと私は母が娘と息子のために今まで仕事を続けていたのだと知った。
そんな当たり前の事がひねくれた子供の私には理解出来ていなかったのだ。
心の中で感謝したが、口に出して言うのまでは躊躇われそのままになった。
数年後、母が1度目の入院をした。
良性ではあったが下肢に腫瘍が出来、母が以前勤めていた国立の大学病院で9時間に及ぶ手術をして取り除いた。
私と父はその間ずっと病院の待合室で終わるのを待ち続けた。
医師から手術が問題なく終わったと聞き、絶対に大丈夫だと信じてはいたがやはり安堵した。
術後の経過も良好で母は無理は出来ないが普通に生活出来るようになった。
私もまた実家にあまり帰らなくなっていった。
私は勝手に親は死なないと思っていた。
死ぬとしても遠い先の話で、現実感も心の準備も全くなかった。
ましてや母が父より先に亡くなることなどないと根拠もなく信じていた。
だから母が入院をした時も、大したことはないだろうとたかを括っていた。
病気の事などすっかり忘れた頃、母は2度目の入院をする。
膵臓がんだった。
発見が遅く手術を出来る状態ではなかったため薬物治療と放射線療法の処置がとられた。
本人にも告知された。
その段になって初めて私は母が本当に死ぬかもしれないと思った。
でもまだ私たちは母が助かる道を探していた。
姉が勧める治療実績が高い病院へ転院し、別の治療法を模索した。
だが数ヶ月後。
突然容態が 急変した母は、連絡を受けた私が病院へ到着する前に還らぬ人となった。
母の葬儀にはたくさんの弔問客が訪れた。
現役を引退した内科の院長先生や看護師さんは成人した私を見て涙ぐんだ。
また、看護師時代の母に世話になったという方たちは、皆が母へ感謝の言葉を口にした。
私が嫌でたまらなかった母の職業。
母は多くの人に慕われ、愛されていたのだ。
今、私は看護師だった母のことを誇りに思う。
どんなに疎んじられても母は毅然としていた。
母が護ってくれなければ私の現在はない。
感謝を伝える前に逝ってしまった母へ。
貴女に言えなかった言葉を、今更ながらここに残したい。
母さん。
貴女の子供で良かった。
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