ジャッジメントと鬱
ジャッジメントって何よ
最近では耳にする機会が増えてきた【ジャッジメント】だが、
直訳そのままの「審判」「判決」ではないことは分かる。
では、一体何をしたらジャッジメントをしたことになるのか?
どういう状態がジャッジメントなのか?
ワード自体がネガティイブなのか?
●ジャッジするとは
発言や行動にマルやバツをつけ、善悪、優劣、上下を自分の価値基準で判断すること。
「あの人は〇〇だからダメだ」
「この人は〇〇だから私より優れている」
「あの会社は〇〇だから悪い企業だ」
「あんなこと普通なら言わない、私ならこういう言い方をする」
自分の価値基準で非難する。
「ダメだ」は自分の価値基準で判断した批判になる。
その結果、誰かに腹が立ったりイラついたりムカついたり、嫉妬したり羨望したりする。
●ジャッジメントしないとは
自分と他人を比べないこと。
自分を中心に物差しを持ち、それで人を測ることをやめること。
ユリ、ひまわり、秋桜、桜。その全てが競わず、それらがそれぞれ違うことに非難をせず、そのまま認めること。
鬱の私は、自身はいっさいジャッジをしない人間だと思っていた。
無意識に自分に厳しい
【自分には価値がない】だから、誰よりも頑張らないといけないんだ。
これがデフォルトで生きてきた私。
実はこれこそが、ジャッジメントだった。
謙遜からさらに行き過ぎた、強迫観念に近いもの。
頭の中でずっと何十年も響渡っていた声。自身を批判して非難してきた。
誰が決めたんだったっけ?あなたには価値がない。って。
誰かに言われたんだっけ?あなたは価値がない。って。
だって、言われたんだもの。
自身が頑張った、結果を出した。でも認めてもらえなかった。
それは、自分を否定された経験になった。
そして、自分の努力が足りないから。
自分が自分に甘いから。私がダメだから。
自分にもっと厳しくして、さらに頑張るしかないと決め込んだ。
自身をコテンパンに非難して、生きていくことになった。
無意識な完璧主義
自身が完璧主義だと全く思っていなかった。
むしろ、逆だと思っていた。なぜなら「完璧」と言う言葉を使わないから。
人に「完璧にしなさい」と要求しないし「完璧にやろう」なんて声かけもしない。むしろ、理想どおりに出来ない方が当たり前だからそっちの後始末を前もって考える思考だった。
人はできなくて当たり前。
でも自分は出来る限り上手く。できるだけ理想に近い状態を綿密に予想し、逆算し、備え、ギリギリまで変更し、ベストに近い状態を目指す。
ベストじゃなくても良いけど、限りなくベターを選び続けて完成度を高くする。という行動をしていた。
「できる限り良い状態に仕上げたい」は立派な完璧主義だ。
加えて「サボル。休む。逃げる。」がデフォルトで許されておらず、
隙や遊びが全く無い。これも完璧主義の特徴。
自覚があれば、改善しようとか、気をつけようと言う発想にもなるが無意識だからこそ厄介だったのだ。
人がかけてくれる言葉の意味がわかっていなかった。
「もっと肩の力抜いた方がいいよ」
「そんなに張っていてしんどくないの?」
むしろ、憤っていた。自分を否定されたと感じて。
許せない憤りでいっぱい
つまり「鬱」でストップするまで私はこのように生きてきた。
デフォルトで自分を非難しジャッジメントしまくり。
無意識に完璧主義で生きづらく。
自分を認めない世界、認めない人、それらに怒り、許せなかった。
とても、しんどそう。とても、苦しそう。
新世紀エヴァンゲリオンのシンジ君と重なる。
「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。」
これが、生きてる間ずっとそうだった。
疲れたり、何か悩んだり、逃げ出したい問題にぶつかるたびに
頭の中を声が駆け巡る。
【お前は価値がない。逃げるな。】
過呼吸になっている時は、この声が回り回っている。
とても、しんどい。
何度もカウンセリングを重ねて行き、最終的に答えが出た。
自分を非難する完璧主義な思考システムベースの生き方に限界がきて,
鬱になったんだと。
「気づき」に到達するまでの過程というのは、
カウンセリングにおいて、何度なくブラックボックスを掘り起こしては開け、涙し、ぶつかるというタフな精神的向き合いの連続なのだ。