鹿の王を読んだ
「獣の奏者」を小学生の頃に読んでから見事に上橋菜穂子さんの小説のファンになった。毎回独特の世界観に魅せられる、「獣の奏者」の話はまた今度ゆっくり。
「鹿の王」が発売され、本屋大賞を取ったのはもう5年くらい前だが、あの時からずっと読みたいと思っていた。本は高価なので、読むときはめっきり古本屋で買うか図書館で借りて読んでばっかりだった。少ないお小遣いの中で、当時は中々購入には至れなかったのだ。
しかしつい最近、やっっっと古本屋で「鹿の王」を見つけた、しかも200円!貧乏学生には本当にありがたい。すぐに購入して読み始めた。
ヴァンという元戦士だった男とホッサルという医者が主人公で、2人がそれぞれの目線で、ある伝染病とそれによって変化する社会を描いていくのだが、ここでは心に残ったシーンを忘れないうちに書き留める。
本当に読むことを薦めたい、コロナで世間が騒がしい今だからこそ感じるものがあった。
ヴァンの故郷では部族長が1番偉いのではなく、年長者を敬う文化がある。多くの争いを生き抜き、経験も豊富だからだ。中でも最も敬われるのは、強く、素敵な妻を持ち、子を愛し愛されるような者らしい。しかしこの人よりも敬われるべき人がいる。それが「鹿の王」にあたるような人だ。タイトルにもある「鹿の王」とは、鹿の群れの中でも仲間のピンチに自分が犠牲となり、仲間を助ける鹿のこと。これを読んだ時、ああ自分が犠牲になるなんて凄い人だな、私もそうなれたらなと思った。
しかし読み進めていくうちに、ヴァンの父が「鹿の王」について語るシーンが出てくる。彼にとって「鹿の王」は大馬鹿者だという。仲間を助けて自分側犠牲になるなんてやってはいけない、命を捨てずに我々は生きて子孫を作ってつないでいかなければだめだ、「鹿の王」になれるのは仲間を助けて自分が犠牲になり死ぬことができる才能を持ってしまった可哀想な人だけだ、と。
ヴァンの父が感じていることがわかる気がした。個人ができることはあまりに小さいし、長く生きて仲間たちに愛される人生を送ることがきっと種を守ることに繋がるのだろう。ヴァンと「鹿の王」がどんどん重なっていくのが切なかった。独角になる時に、ヴァンが長から、我らがこれから少しでも生きやすい未来のために戦ってくれないかと持ちかけられたシーンにも感動した。犠牲になるということはある意味簡単であり、生き続けるのはある意味難しいのかもしれない。ヴァンがたっぷりの優しさを持って生きていて私もほかほかになった。
この小説の中で、個人と集団について何度も触れられている。人と病だとか、部族と部族だとか、動物と植物だとか、違っているようで全部ある一定の意味があって噛み合って世界が成り立ってるのかもしれない。
病にかかるかかからないかは運なのか?と聞かれたホッサルが、運のせいにしたくないと話したのも心に残る。どんな病も必ずいつか解明できる。病を運のせいにしてしてしまえば、救える命が減る、これが嫌で1人でも救いたくて医者になったと。今まで私は医者という職業を誤解していた気がした。人を救いたいという思いがあるのはわかってたのだが、こんなにも嫌味のない理由を聞いたことがなかった。
などなどこの本で何度も心が浄化された。上橋菜穂子の小説は主人公たちの優しさが溢れてて魅力がすごくて好き。思いやりを持って人にあたれる人ばかり。
現実を頑張る気力をもらった。本はこういうものだよな〜。社会で誰が偉いとかそういうのは決まってなくて、自由に考えられればいいのにね。自分1人しかいないし自分も大事にあとは知り合いがみんな幸せに過ごせたらね。映画化も決まっているそう、楽しみ!