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天空の城ラピュタに出てくる大人たちになりたい。

初めて天空の城ラピュタを観たのは、映画館だった。

公開は1986年。映画館には父親に連れて行ってもらった。たぶん座席は最後列だった。
びっしりと座席が埋め尽くされた満員の映画館。映画に関する記憶は繰り返し観ることによって上書きされていくので、その時印象的だったシーンがどこだったかは、正直なところ、よく覚えていない。けれど、とにかくワクワクしていて、終わった後も大興奮だったことだけは覚えている。映画館を出た後の高揚感だけは、今でもずっと胸の奥で熱を帯びたままだ。

そんな私は、テレビで天空の城ラピュタが放送される度に、必ずリアルタイムで天空の城ラピュタを観ることにしている。何度見ても面白いし、いつ見ても大好きだと思う。宮﨑駿監督作品で、一番好きだと言っても過言ではない。もちろん好きだから観ているのだけど、必ず観たいという動機はそれだけではない気もしている。幼い頃に持っていたはずの好奇心や夢。繰り返される日々と共に次第に失っていくもの。それを呼び起こしたい、なくしたくないと、今にも消えそうに小さく燃えている子ども心に、火を灯そうとしているのかもしれない。

ラピュタの魅力的なところを挙げ始めればキリがない。

ワクワクする音楽。美しい映像。聞き慣れない単語。私では絶対に辿り着けない場所。雲の中。空の上。見たこともない乗り物。美味しそうな食べ物。忘れられない台詞。魅力的な登場人物たち。

主人公のパズーとシータは、涙が出るほど健気で健全だ。
幼くして親を亡くした少年と少女。どうしてこうもスレていないのだろうかと不思議になるほどだが、主人公だからこれで正解なのだろう。

しかし私は、この二人のような健全な登場人物だけでは、天空の城ラピュタが繰り返し見たくなる中毒性を帯びた魅力的な映画にはならなかったのではないかと思ったりもする。
彼らを取り巻く欲望に塗れた大人たち。無垢で純粋な少年少女と対照的に、自分の欲に忠実でわがままな大人たちが、この映画をより魅惑的にしているのではないかと私は思っている。

とはいえ、私の好きなシーンは、パズーが空から落ちてくるシータを受け止めるシーンだし、パズーが塔の上のシータを救い出すシーンだし、二人で飛行船で毛布を分け合うシーンだし、滅びの呪文を唱えるシーンだ。

健気すぎる。
健全すぎる。
美しすぎる。

二人の心の美しさは、竜の巣と呼ばれる積乱雲あるいは竜巻のような、誰もが触れることを恐れる存在の中で、美しさを保ったまま清廉と存在しているラピュタそのものだ。

その美しさが際立つのは、やはりエゴイスティックなムスカの存在があってこそだし、空中海賊たちのコミカルで粗暴で気のいい奴らの存在があってこそだろう。

パズーとシータは、天空の城ラピュタの良心なのかもしれないとも思う。人には善もあれば悪もある。人が生まれついて善なのか悪なのかは、私にはわからない。

善を唱えず悪を肯定すると、袋叩きにあいそうな現代で、自分の欲望に忠実な一見悪とされる登場人物たちが私にはひどく魅力的に見える。天空の城ラピュタに出てくる大人たちは、私の憧れなのだ。

子どもなのに大人にならざるを得なかったパズーとシータ。大人なのに子どものように振る舞うラピュタの大人たち。私はきっと、子どもの心を残したままの大人でいたいのかもしれない。

それにしても、ラピュタには夏がよく似合う。





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