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異常天才という凡庸について
小林よしのりが鳥山明先生の死因を笑いのネタにして取り巻きとせせら笑っていたことも、鳥山明先生の業績にケチをつける記事を書いたことも世間的にはまったく知られていない。
小林が公式チャンネルで生配信しても、メルマガで記事を書いても、自身が主催するシンポジウムで語っても、炎上どころかボヤ騒ぎすら起きなかった。
鳥山明先生の突然の訃報には誰もが驚き、また悲しんでいたのだが、おそらく小林は今が注目を集めるチャンスだと思ったのか、炎上狙いで嬉々としてからかってみせた。だが、その浅ましい目論見とは裏腹にまったくの無風であった。
↑上の動画は不快な内容ではあるが、是非最後まで観てもらいたい。
動画の中にあるような発言は、著名人ではない無名の一般人が面白半分にSNSに投稿したとしても、一気に燃えて延焼してゆくほどのありえない酷さであるにも関わらず、世間に広まることはなかった。
その酷い内容について、私は幾つも「ゆっくり解説」を発信して、累計50万回再生されたのだが、それでもその程度では「世間」に知れ渡ったといえるような数ではない。
まあ、それについてはどうでも良い。
それよりも小林は何故、ここまでして鳥山明先生を貶めようとしたのか、その心理について考えてみよう。
小林よしのりは一応現役のマンガ家である。
71歳(2025年現在)という年齢で現役作家として活動しているのだから、本来ならばもっと称賛される筈だし、尊敬を集めるものだろう。しかしどうも世間的にはそのような扱いをしていない。
先日、DOMMUNEというチャンネルで配信されていたトークイベントで、珍しく小林よしのり作品がフィーチャーされていた。
エッセイストのしまおまほさんが子供の頃に愛読していたマンガとして「おぼっちゃまくん」を取り上げていたのだが、登壇者の一人であるコンバットRECさんは小林は既にマンガ家として引退していると勘違いしていて、「小林よしりん大好き」と公言している吉田豪さんが今もちゃんとマンガを描いていることを説明するくだりがあった。
このコンバットRECさんの反応こそが世間一般のそれなのだろうと妙に納得した。
吉田豪さんも現役であるとフォローしながらも今の作品の評価を口にせず、また以前に大絶賛した筈の「卑怯者の島」の内容もほとんど覚えていないという辺りもまさにそういうことなんだろうなと感慨深いものがあった。
世間どころか、著名人たちの間でも小林は既にマンガ家としては引退している、もしくは開店休業状態であると認識されているのである。
小林はそれを認めたくないのだろう。
「自分はオンリーワンの異常天才であり、巨匠であり、生きる伝説である」と、そう強弁するに違いない。
しかし、残念ながら小林はマンガ家としては凡百なのは紛れもない事実である。
小林は自らを「天才」と自称する。
かつて天才は自称するものではなかったが、スラムダンクの主人公の影響なのかは知らないが、1990年代から自らを「天才」と称する有名人が増殖した。小林もそのなかの一人だろう。
しかし果たして小林よしのりはマンガ家として天才的であったのか。
小林のマンガで人智を超えた天賦の才能といわざるを得ない作品があったのかどうか、検証する必要はあるだろうか?
小林は初期ゴー宣から自分の作品がいかに優れたものであるかを語り、深い哲学があるがそれを理解出来るのは知的エリートだけであるというような言い方をしていた。
しかし、小林のマンガは別に難解でもなく、また芸術的でもないし、学術的でもない。また、エンターテイメントとして楽しめるものではもちろんなかった。
非常にわかりやすく、状況すべてを吹き出しのなかのセリフで説明し、登場人物は作家本人の主張をまるで腹話術師の人形のようにペラペラと語る。
ゆえに作品世界に没入させるタイプのマンガではなく、吹き出しに書かれた理屈で溜飲を下げさせるシロモノであった。小林のゴー宣以外のマンガを幾つか読んでみたが、そのどれもがそのようなものであった。
いわばどれもプチゴー宣であり、要するに小林は自分の理屈を滔々と説く手段としてマンガを選んだといって良いだろう。
マンガ表現を追求したいわけではなく、自分の主張さえ通せるのならマンガ以外でも別に構わないという人なのだろう。
それこそカラオケだろうがなんだろうがなんでもいい。
かつてゴー宣の中で、何度となく「わしはいつかフィクションの世界に戻る」などと描いていたが、小林の描く「物語」はゴー宣以前も別に評価されていないわけだし、小林の完全フィクションマンガなんて、誰に求められているわけでもなかった。
普通にゴー宣タイプのいわゆるエッセイ漫画系が小林には向いていたのに、小林はどうやら自分を見誤っていたようで、それこそ楳図かずおやいがらしみきおなどのような他にはない独自性のある特殊なマンガ家であると思い違いをしていたフシがある。
「どとーの愛」にしろ「最終フェイス」にしろ「厳格に訊け」にしろ、別に面白くないとは言わないが、それが「デビルマン」や「さくらの唄」や「ポーの一族」のような傑作であるかと問われたら、「それは言わぬが花」としか答えようがないだろう。
別にエッセイ漫画を下等なものであるなどと卑下する必要はない。それが得意ならば、特技を活かしてゆけば良い。
それこそ、SAPIOに移籍する前のゴー宣のノリで、スタッフや編集者との日常を活写しながら時事ネタに暴言をカマすスタイルを続けつつ、幼少期や思春期のエピソードを織り交ぜてゆくことを繰り返していれば、作画力も磨かれるし、構成力も高まり、劣化を免れた筈だが、しかしこれは今やもう取り戻すことは出来ない「あったかもしれないもう一人の小林よしのり」という悲しき「If もしも....」だ。
仮にそのスタイルであったのならば、ジャニー喜多川擁護も中居正広擁護もコロナはただの風邪も全然問題はなかった。
小林が無茶な主張をし、スタッフが「んなバカな」とツッコミを入れて、それでも暴言をゴリ押しするという喜劇的なエッセイ漫画ならば世間からも一つのガス抜きとして評価されていたかもしれない。
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しかし小林はそこまで漫画への思い入れもなかったので、次第に「絵解きマンガ」という楽な作業ばかり選ぶようになり、スタッフとのやりとりなどの「無駄なエッセイ」を削ぎ落とし、ひたすら浅い考えの自己主張をするだけになった。
そうであるにも関わらず、「わしは唯一無二の異常天才マンガ家」という自尊心ばかりが日増しに強まり、「単なる娯楽マンガ」で巨万の富を築き、圧倒的な称賛を浴びている鳥山明先生に対して、「わしの作品は圧倒的に深い哲学があるが、鳥山にはなにもない。なのに、どうして軽薄な鳥山ばかりが称賛されるのか。納得がいかないし、許せない」と一方的な憎しみを抱き、だから小林は鳥山明先生が亡くなったことにはしゃぎ、「鳥山よりわしの方が優れている」アピールをしたのだ。
小林よしのりは自分自身のマンガ家としての性質を理解せず、晩年になってどうにもならない状態になった。
今回の記事はかなり小林よしのりには優しい内容になっているので、小林はこれを読んで改めて自分のマンガ家としての性質や向き不向き、また鳥山明先生との圧倒的な力の差を思い知ってもらいたい。