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エンデの故郷を訪れる

ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」が大好きだった。

この前、はじめて引っ越し先近くの図書館に行ったとき、あのあかがね色の本が置いてあるのを見つけた。箱はなくなって、背表紙は擦り切れて文字が見えなくなっていた。もう外見ではなんの本だか分からなくなっているそのあかがね色に、「ああなるほど、時がたって擦り切れれば擦り切れるほど本当に…」と感嘆したのは、きっと私だけではないだろう。

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小さい頃、私はクラスになじめなくて浮いていた。しょんぼりと家に帰っても、両親はピリピリして、私はずっと居場所らしきものを探していたように思う。

両親の喧嘩を止められないのがつらくて、自分に累が及ぶのも怖くて、ただ泣くことしかできなかったそんなとき。
現実逃避のように、そこから連れ出してくれたのが「はてしない物語」だった。

まるでバスチアンみたいに、薄暗い場所で本を読み、アトレーユとともに旅をして、いつかフッフールが連れ出しにやってきてくれないかと願っていたように思う。

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はじめて読んだのは小学生になったばかりの頃で、そのあと学校が変わっても何度も読み返した。児童文学にあたるものだけど、大人になっても読み返すたびに新しい発見があった。自分の成長や価値観の変化に合わせて、言葉が色を変え、文章が全く違う意味を持って私の前に現れてくるようだった。

いったいどうしてこんな物語が書けるのだろうと思った。この本を書いた人が生まれた景色を、見てみたいと思った。当時の私にはドイツは随分遠く思えて、それはただの漠然とした、一瞬の思いつきにすぎなかったけれど。

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エンデのふるさと、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)。山あいにある小さな村。

2024年、私がそこに行けたのは、ほんの少しの自分の行動と、いろんな運や人の厚意が知らないうちに積み重なった先にあった、一つのものだったのだと思う。十数年前は東京に出ていくのですらおっかなびっくりで、ひとりでこんな異国を歩くなんて、現実感がなさすぎて夢にもならなかった。

春のはじめ、車窓にはやわらかな牧草地に一面のたんぽぽが咲き乱れていた。花のじゅうたんという言葉ですら堅苦しく感じるような、空気までがふわふわと柔らかくて、妖精がこの中で踊っていても驚かない気がした。

すぐそばにはドイツ最高峰のツークシュピッツェ山が横たわり、てっぺんには雪が残っているのが見えた。私は岩喰い族のピョルンラハツァルクのことを思い出した。

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エンデがモモやはてしない物語を書いたのは、ここではなくイタリアだとは知っている。でも、ふるさとの感覚というのは、どこに住んでも忘れられずに心の源であり続けるような気がする。

私の場合は、異国を歩いて、珍しいものを見て、素敵だと思っても、結局最後は郷愁に戻ってきてしまう。心が温かくなって、噛めば噛むほど美味しくなる、源に近い安心のようなもの。
それは異国であってもふるさとに似ている場所で感じるもので、そのふるさとは私にとっては生まれ故郷のようでもあり、だけどもっとすべてのもののふるさととでもいうような、母なる自然に近しい、豊かな山の緑そのものという気もする。

ガルミッシュ・パルテンキルヒェンの風景は、どこか日本の阿蘇や信州にも似ているように思った。

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街には、ミヒャエル・エンデ・クア・パーク(Michael-Ende-Kurpark)という公園がひっそりあった。そこはエンデにちなんで名づけられた公園らしく、カシオペイアや色々な登場人物の銅像が公園に並んでいる。Kurは治療、のような意味で、この地が公的な療養地(Kurort)になっていることが関係しての名前らしい。空気の綺麗なアルプスのふもとで、安全と幸福を保証されて、ただ柔らかい空気の中を歩けるということは、どんなに幸せなことだろう。あの頃物語が私の心の安全基地になってくれたことを思い出す。

学校終わりの時刻らしく、子供たちが遊んでいるのが見える。今は平和なこの街にも、エンデの生まれたころは、戦前のほの暗さが立ち込めていたのだろうか。そしてそのほの暗さも、アルプスは黙って見守っていたのだろう。冬には冷たく凍る野原も、春になれば美しい花を咲かせて、そのサイクルをずっと繰り返しながら。

遊ぶ子供たちに、幼い頃の自分を思い出して、ずいぶん遠くに来たものだとしみじみと思う。

エンデがファンタジーと現実を別物だと言っているのは知っている。でも、現実もはてしない物語のように、おわりとはじまりを繰り返しながら、小さなことがらが知らないところで別の物語を生んで、ずっとずっと輪のように、続いていくのだろう。

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