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苦痛から逃げずに、寄り添う(#自分で選んでよかったこと)

私と息子を乗せたチャーター舟は、海岸から数キロ離れた沖合で止まった。「ここでどうぞ」と船長が視線を合わせずに言った。

抱えていた骨壷を開くと、白い遺灰が風に舞った。20年間連れ添った夫……一番の親友、理解者、共にガンと闘った戦友でもあった人の最期のカタチ。

海に撒いた遺灰が海中へ消えていくのを見届けながら、私は自分という人間も亡くなっていくのを実感していた。

翌日、私は中世ヨーロッパの絵画と、バラ園で知られる美術館を訪れていた。美しいものに囲まれて深く負った心の傷を癒し、生き生きとしたエネルギーを少しでもいいから、受け取りたかったのだ。

でも、私が見ていたのは絵画ではなく、そこかしこに落とされた夫の影だった。彼の姿や匂いは、バラ園までついて回った。色とりどりの花の前で写真を撮ったり笑っている人々から遠く離れ、独りポツン、とベンチに座る。この世の喜びと自分の間に横たわる、どうしても埋めようがない、深い溝。

私はこの世界に確かに存在していながら、参加することができなかった。

「悲しみを感じる暇がないほど、忙しくするといいよ」

2年前にやはり夫を亡くした友人からのアドバイス。でも、それが役に立たないことは、20代の経験からわかっていた。

次々訪れる災難と孤独に打ちのめされた若き日々、私はなんとか「苦痛から逃避」しようと、もがいていた。スイーツ、ワイン、仕事、大して好きでもない人とのデート……心の痛みを、たとえ一時的にでも忘れさせてくれるものなら、なんでもいい。酔い潰れてソファでうたた寝した後は、前よりもっと、つらくなった。心の痛みを感じぬよう体を痛めつけるから、どんどん、どんどん疲労して、より深い混沌へと落ち込んで行ってしまう……

あの体験だけは、繰り返したくない。

だから私は、心の痛みに向き合い、それと寄り添うことに決めた。

夫の思い出にぎゅうっと胸を鷲掴みにされるたび、深く息をついて、心の中を覗き込む。重い石で押し潰されるような感覚や、不意にかさぶたが取れて、まだ乾いていない皮膚が露出されるような痛みを覚える。熱い怒りの炎に焼かれてしまいそうなこともある。それでも、自分の心から意識を逸らさず、ゆっくり吸った息を苦痛の感覚へと送りこむ。

何度も、何度も、それを繰り返す。

すると、少しづつ、少しづつ、痛みが和らいでいくのが感じられる。激しく打ち寄せる波が次第に穏やかになっていくように、苦痛のパワーが徐々に緩んでいく。痛みはまだそこにあるけれど、最大の危機が遠のいていくのがわかる。

やがて、静寂が戻ってくる。

苦痛を無事乗り越えた安堵と、少しだけ強くなった自分を大切にしたい気持ちが、うっすらとしたやすらぎに包まれる。

私は喪失という大波に襲われるたび、そこから必死で逃げ出そうとするのではなく、その圧倒的な力と向き合い、頭を垂れて、水しぶきが自分の中へと打ち寄せるのに任せた。嗚咽する自分を見ているもう一人の自分がいて、この荒波もやがては鎮まる、自分は大丈夫だ、と知っていた。同じ体験を繰り返していくと、苦痛に向き合う強さがいっそう増していった。

そうやって、少しずつ、少しずつ、傷が癒されていった。そして、どんなに打ちのめされても立ち上がることができる、屈強な自分が生まれた。その強さとは痛みから自らを守る鋼の防具ではなく、自分の痛みと他人の痛みを包んであげられる優しさに支えられている。

人生で一番大切だった人を失った痛みを、たやすく乗り越えることはできない。それでも、

苦痛から逃げようとするのではなく、それと向き合い、寄り添うことを選んでよかった、

と心から思える。

なぜなら、喪失の痛みは自分がどれほど夫を愛していたか、そして彼がどれだけ自分を愛してくれていたかの証だから。


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