お茶でもどうぞ|2025.1.19日記
8時半起床。曇天で寒い。
知り合いの話では上越住みの方は、わたしが住む地域の冬が寒いと話していたそうだ。
上越というと日本海側で何十センチと積雪する冬を想い起こす。
わたしは関西中心に日本の西側で主に育ってきたが、今住む地域は気温はさほど低くはないけれど、たしかに海が近いため風が窓を叩いて揺らすほど突風が吹き、強いことに驚いたものだ。
わたしは思い当たることはあっても、その当たったことをそのまま文章で伝えることの難しさの壁に、今、当たっていると感じている。
特に、嬉しい、愉しいと感じたことについて。
(わたしはこんなに幸せを受け取っていいのだろうか)とか、(わたしが幸せや喜びをもたらしてあげなくて、いいのだろうか)など、生育環境もしくはカルマというものがあるとすれば、どこか自分に背負わせているものがあり、そのフィルターからものごととかかわっていることがある。
それに善し悪しや真偽を問うというよりも、(あー、こういう時にそう思うんだな)と、見ている。
わたしは家族との架け橋になればと幼児教育を専攻し、保育士資格と幼稚園教諭の免許を取得した。
それが自分が本当に求めることをすることとは違うことだと思っていたが、そうではなかったなと、今は思う。
なぜなら、《家族がよどみなく、心地よく安心して過ごすために、どうすればいいか》を考えて起こした行動だったからだ。
人のために行動を起こすことが、どれだけかけがえのないことか。
今となっては過去の自分のことなのに、別人のことのようで尊敬してしまう。
当時はそれはそれで、目一杯まっしぐらに取り組んでいたんだけれども。
今朝のお茶は、トゥルシー、黒文字、柚子の皮。トゥルシーの清流が流れるきもちよさ、心地よさ、黒文字の清らかに浄める澄んだ香り高さ、柑橘の皮が入ると溌剌さ、活発さ、無邪気な明るさに輪をかけるきがする。
今現在、わたしは住まいという土壌、土台を見直している。
自分自身を細やかに感じたときに《見直し》について、以下のことが含まれるなと思った。
◇人として、わたしとしての感性や感覚を暮らしのなかでより、研ぎ澄ませることができるか。
◇過去、今、未来に対して「○○だから△△できない」と、生育環境や身につけてきた癖等の《条件づけ》からの選択になっていないか。
◇どこにいても、わたしはわたし。
見直すなかで夢や希望を乗せて期待してしまうが、それさえも「希望が叶えば幸せに暮らせる」という《条件づけ》になっていないか。
◇今在る環境のなかでも、選択したことを目一杯感情含めて、愉しめているか。
◇自分にとって夢中になれることを、あらゆる方向から試行錯誤していくなかで、「より心地よい環境へ行きたい!」と時が来た場合、選択肢を自分に提示してあげられるか。
探索・探求し、準備しておきたい。
わたしは今、あらゆる可能性を含んだ選択肢を、瞬間瞬間、自分に提示、提案することを意識し行動することを心掛けている。
何かものごとを選択するときに時間、経済面、精神的に余白、合間、ゆとりがあるかどうか。
場、空間、居心地、経済面など、あらゆるものを含んだなかで、そこに自分が居たときに、《自分が心地よさを感じているか》。
癖や思い込みからでなく、"今ここ"、瞬間瞬間の選択であるか。
あらゆる状況、状態で揺らぎがあっても、バランスをとれる自分の心地よさ、安心感、喜びから選択をしているか。
日々、様々なことがあるなかで、可能性を自ら絶やすことなく、自らに薪を焚べて目一杯生きているか。
自分が心に触れた布石を拾って行かなければ、紐解きも回収もできない。
自分にまつわるエピソードを含めて、今、自分が感じることをそのまま、こちらの日記で書き綴ることに努めようと思う。
今日もますます、ごきげんな一日を⚪️