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『偽る人』(揺れる) (第82話)

房子の入院・そして、また家に(1)

 ある日、施設から電話がかかってきた。四月の終わりごろのことだった。
 房子が部屋で転倒して大腿部を骨折したという。施設の近くの病院に、施設のスタッフが付き添って行ってくれていた。
 その病院に、恭子が通うには遠いので、なるべく近くの病院を探して、替えてくれるようにお願いした。かくして、房子は介護タクシーで、ストレッチャーに乗せられて最寄りの総合病院に運ばれてきたのだ。

 幸男にも連絡した。卓雄と恭子が付き添っている病院に、幸男も後からかけつけた。
 以前、塾で転倒して、反対側の足の骨折をした時には、房子が血液をさらさらにする薬を飲んでいたために、手術前にその効き目を無くす一週間が必要だった。けれど、今回運ばれた病院で、担当した若めの担当医は、手術まで長引くリスクの方が高いと判断して、その日の夜のうちに手術がおこなわれることになった。
 久しぶりに会った幸男とは、必要最小限の事務的な話だけをした。幸男も、恭子に任せるしかないからだろう。おとなしかった。

 それから、リハビリも含めて、約一ヵ月、恭子は毎日病院に通った。
 病院へは、バスを乗り継いで行くのが楽な行き方だった。けれど、そうすると、バスを待つたびに時間がかかる。荷物を持つのも重い。そこで、がんばって自転車で通った。病院まで、どんなに一生懸命ペダルをこいでも片道四十分かかった。
 五月になると日差しは強い。アスファルトから熱と光が反射する。額に汗が流れ、前髪がへばりついた。
病院に行く途中までの道は坂が多かったし、右折して大きな車道になってからは、車が続く危ない道だった。それでも、恭子は必死に毎日自転車を飛ばした。
 ひどい母親だった。自分を苦しめた人だった。けれど、寝たきりにはしたくなかった。ぼけてしまって、恭子が誰かも分からなくなってほしくなかった。そんな最後にはしたくなかった。

 S総合病院は、割合新しい、きれいな病院だった。
 房子は、手術直後は看護師の目が行き届く広い大部屋にいたけれど、その後は四人部屋に移された。陽の当たる明るい部屋だった。
 以前と同じように、そこでも房子は最年長のようだった。担当の医師はそれぞれ違うけれど、その部屋は、骨折している人ばかりだった。

 恭子が部屋に入っていくと、房子は少しやさしい顔をして、「疲れたでしょう」と言った。その言葉に、恭子はとまどった。以前の入院の時とはなんだか様子が違っている。
恭子が毎日、四十分もかけて自転車で通うことを、房子は知っていた。けれど、それにしても、こんな言葉を、房子から聞くのは初めてだった。
房子の隣のベッドには、房子よりだいぶ若そうな人がいた。自宅の部屋のカーペットでつまづいて転んで骨折したという。
「だんだん足が上がらなくなるのよねぇ」と恭子に笑いながら言った。明るい人だった。
 ある日恭子が部屋に入って行こうとした時、房子がその隣のベッドの女性に恭子のことを誉めて話しているのが耳に入った。遠い所を自転車で来てくれる、と房子が言っている。恭子は耳を疑った。いったいどうしたんだろう、と思った。
房子が他人に、恭子のことを誉めることなど、今まで一度もなかった。自分の自慢話を精いっぱいするだけだったのに。

 房子は前回の骨折の時と同様に、歩けるようになるまで、自分でもがんばった。自分の体に関して、驚くほど前向きな人だった。
 恭子は看護師の許可を得て、房子を車椅子に乗せて、廊下の奥の少し広いスペースに行って、歩行練習を手伝った。そこには壁沿いに金属の長いバーがついていて、トレーニングにはうってつけだった。
エレベーターで屋上にも行った。屋上には、ほとんど人気がない。低い木の植え込みが作られていて、金網の近くに、植え込みに囲まれたジグザグのスペースがあった。そのジグザクのスペースで、房子の手をとって、歩く練習をした。
屋上から、金網越しに道路を挟んだ家々のベランダに干した洗濯物が見える。吊るされたティーシャツやタオルを見ていると、金網のこちらにいる自分達が、非現実的な世界にいるような気がした。

 そうやって、房子は徐々に回復した。施設に帰っても、リハビリはできないので、病院でその期間分特別に延長してくれて、毎日リハビリのトレーニングをやってくれていた。
 そんなある日のことだった。房子が退院後の話をした。
恭子が当然施設に帰ってからの話だと思って聞いていると、どうも様子が違う。房子は家に帰る話をしているのだ。びっくりした。どうして急にそんなことになったのだろう、と思った。
 房子は、「家に帰りたい」とも、「帰っていいかしら」とも言わなかった。ただ、「帰るから」とだけ言うのだ。
 あっけにとられながら理由を訊くと、恭子が遠い所を通ってくれて、心を動かされた、とか、怪我をして、施設で暮らす自信がないとか、果ては、施設にいると年金が消えていくだけなので、そのお金を、亜美が最近購入することになった家のローンに充ててあげたい、などと言った。

 考えてもいなかった突然の話なので、恭子は意表を突かれ、とまどっていた。最初は現実味がなかった。房子が家に帰ってくるなんて、夢にも思っていなかった。
 けれど、房子が本当に家に帰ろうと思っていることを知ると、じわじわとうれしさがこみあげた。
 房子の口からは、「恭子と一緒に暮らしたい」などという言葉は決して出ない。それに、心にもない亜美のことなど持ち出して、言い訳にしようとするところが可愛げがなかった。
 それでも、恭子はびっくりしたし、うれしかった。

 その日、病院を出て、夕暮れの街道を自転車で走りながら、恭子は興奮していた。
(母が帰ってくる! 母が帰ってくる!)
胸の中で繰り返した。
 施設に行くことになったあの時、成り行きでどんどん事が進んでしまったけれど、決して望んだ結果ではなかった。やりかけていた仕事を途中で放り投げたような、挫折感でいっぱいの気持ちだった。無念だった。
 もう、帰ってくることなんてないと諦めていた。まさか、こんな展開になるなんて。

 卓雄や亜美たちは、何て言うだろう。恭子の苦しい日々を知っている彼らは、きっと猛反対するだろう。恭子の愚痴を聞くのは、もううんざりだと思うだろう。
 けれど・・・、最後は恭子の気持ちに任せると、きっと言うだろう。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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