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『偽る人』(揺れる) (第89話)

そして

 房子の晩年に、恭子がよく考えていたことがあった。それは、ずっと気持ちが揺れ続けていた恭子が、房子がいつかもし亡くなったら、いったいどちらの気持ちになっているだろうか、ということだった。
房子の死を深く悲しみ、もめごとの多かった日々を後悔し、やってあげられなかったことを数え上げて泣き続けるだろうか。あるいは、常に自分ファーストで、強く、冷たかった房子のことを思い出して、恨んでいるだろうか。あれほど母性の欠落した母親も珍しい、と、恭子は今でも思う。

 亡くなり方があまりに突然だったので、恭子はしばらくは猛烈な悲しみと後悔の淵に突き落とされていた。どうして別れの時にそばにいてあげられなかったかと、自責の念にさいなまれ続けた。もう一度、房子が苦しんでいたあの時まで巻き戻してほしい、優しい言葉をかけ、体をさすってあげたい、と思い続けた。
死後、整理していた書類の中に、房子の絵手紙や、デイケアで練習していた子供のようにへたくそな習字の紙を見つけるたびに、涙をボロボロ流して嗚咽した。
 死という別れには、必ず「後悔」という悲しみがついてくるのだと思う。

 けれど、一年もしないうちに、その思いが逆転していた。
 恭子の中に蘇ってくる房子は、強く、冷たい姿ばかりだった。自分ばかりを偽りの姿に虚飾し、娘である恭子を他人に悪く伝えた房子の罪を生々しく思い出す。房子に振り回され、壊されていった自分の人生を、口惜しい思いで振り返るのだ。

 亡くなった直後に亡骸と対面して「おばあさま、ごめんなさい」「おばあさま、ごめんなさい」と繰り返して涙を流していた幸男は、喪主ができないことにへそを曲げ、とうとう葬式にも来なかった。喪主をやらせないのなら、ビラを撒いて訴える、とまで言っていた。
 自分のプライドのために、最愛の母親との最後の別れにも来ない幸男に、恭子は呆れた。何をするか分からない幸男が不安で、恭子は房子との大切な別れの瞬間である火葬の釜に入れられる時に、房子への想いに浸りきることができなかった。それだけが、後々まで悔しく、心残りだった。

 その後のさまざまな手続きや挨拶に恭子が追われている時にも、幸男は房子が遺した金に執着し、毎月の出費額を訊きにわざわざ遠くの施設に訊きに行ったり、ケアマネの工藤さんに月々の経費を訊きに行っていた。
 房子の月々の出費については、恭子は毎日きちんとノートにつけていた。ノートは房子が施設に入って恭子がお金の管理をし始めてからのもので、三冊も続いている。レシートもすべて貼ってあった。
その他の大きなものは銀行から引き落とされて通帳に記載されている。なにもあちこちに訊いて歩くような、みっともない真似をしなくても、と恥ずかしかった。
 
悠一も、房子が家を売ったことに腹を立て、亡くなったことを知らせても、とうとう来なかった。それまで住居費も要らず、房子に援助し続けてもらったというのに。
 房子へのつながりは結局みんな「金」だけなのだと思った。重い病気の妻を抱えて大変な中、悠一は遠くの施設にわざわざ房子を訪問しに行っていた。それとても、住んでいる家のことで、房子とのつながりを保っておきたかったのではないか。今となっては、そんなふうにさえ思える。
房子はこうして、親族のつながりをぶつぶつと断ち切り、最悪の関係にして逝ってしまったのだ。

悠一が立ち退いた後、不動産屋に言われて、恭子は家を壊す前の立ち合いに出かけた。
そこは息を飲むほどの廃墟だった。こんな家に人が住んでいたのかと驚いた。かつて大学を卒業するまで恭子が住んでいた懐かしい家であったし、今でも夢によく出てくる舞台は、この家だった。
二階の部屋の天井の板が、何枚も壊れて垂れ下がっていた。どの部屋も、隅には、人が住んでいたことを疑うほど、綿ゴミが積もっている。
悠一が寝室にしていた一階の和室の押し入れにも、綿ゴミが広がり、おびただしいネズミの糞が積もっている。悠一は布団を敷いて寝ていたから、毎日こんな押し入れに布団を出し入れしていたのだ。
いくら年老いてきたとはいえ、なんとかできなかったのだろうか。恭子を誤解して、かたくなに拒んできた悠一を思うと、痛々しくもあった。

 介護もせず、恭子のかわりにあちこちの役所を走り回ることもなく、幸男は悠一の家を処分したお金を当然のように受け取り、そのお金で借金を返済して、傾きかけている塾の経営をなんとかしのいでいるようだった。
 幸男は、あんなに房子のことで世話になった卓雄とも、最後には警察官を呼ぶような喧嘩をして、憎悪する仲になっていた。
 房子が亡くなった後、葬儀の前に、突然今から行くと幸男から恭子にメールがあった。けれど、その時運悪く、恭子はいつも行っていた少し遠くの美容院に、手入れもせず伸び放題だった髪を切りにいっていた。施術の最中、気づいて卓雄に連絡した時には、既に遅かった。恭子の家についた幸男が、二階に居て気づかなかった卓雄に、「何故すぐ出てこない!」と逆上したのだ。最初は訳が分からず当惑していた卓雄も、頭に血が上った幸男に我慢が出来ず、とうとう怒り出し、出て行ってくれ!となり、110番に電話する事態になっていた。卓雄も怒ると迫力があるが、幸男は頭から湯気を出し、訳が分からなくなる。
 美容院から戻った恭子が仲に入ったけれど、その時以来、幸男は卓雄にひどい口をきき、怒りを露わにしている。それまで、どんなに礼を重ねても足りないほど世話になってきたというのに。

 房子は、あの世で、この状況をどう思って見ているだろうか。

 恭子は房子が遺したたくさんの手帳に時間をかけて目を通し、気になるところには付箋を貼っていった。
 それから、何十冊もある銀行や郵便局の通帳をめくっていった。
 生前房子は包み紙や紙袋のようなどうでもいいものは大事にとっておくのに、大切な領収書や契約書などを捨ててしまったりと、書類管理に杜撰なところがあった。通帳も、あちこちからバラバラと出てきた。銀行も何行もある。そして名義も、本人だけでなくいくつもあった。預け入れの上限が決まっているので、家族の名前を使ったのだ。すでにどの通帳も残高がゼロになっている。
 通帳は、恭子の家に来るだいぶ前からずっとあった。その中の引き落とされた金額の横に、房子は時々鉛筆でメモを書いていた。それを見ていて驚いた。
「幸男 誕生日」「幸男 パソコン」と幾たびも幸男にそれぞれ何十万円も振り込まれている。五十万円というのもあった。定期的にも振り込まれている。幸男に直接送金できるカードも見つかった。
それは、恭子の家に来てからも、ずっと続いていたものだった。あれほど稼いでいた房子の銀行の残高が少ないはずだった。
 そう言えば、恭子が借金をした後に、あのお金で、幸男の誕生日に車をプレゼントをしてあげたかった、という房子の言葉を聞いたこともあった。
 幸男達が我が物顔に新しく大きな家を建て、住んでいるその高価な土地も、房子がかつては借地権を持っていた。房子が出て行った後に、いつの間にか自分達の物にしてしまっていたのだ。

 幸男にとって、房子は何だったのだろう。
足りなければ、湯水のようにお金を援助し、仕事がなければあてがってくれる。頼めばどんなことでもかなえてくれる、スーパーマンだったのだろうか。
そして、房子にとって幸男は、何だったのだろう。生涯自分ファーストであった房子にとって、幸男は自分の分身であり、結局自己愛だったのだろうか。それとも犬やぬいぐるみを可愛がっていたように、愛情を注ぐ、愛玩物だったのだろうか。
「幸男は私の命です」「幸男と会えることだけを楽しみに・・・」
房子の言葉が蘇ってくる。

 房子は本当に、自分を産んだ母親だったのだろうか。「尽くせるだけ尽くした」と言った房子の言葉が、今でも空々しく響く。
 それでも、街をバスで通り抜ける時、ふと房子の手を引いて買い物をした時のことを物悲しく思い出す。
 房子はある意味「魔性の人」だったのかもしれない。恭子の心の中をこれほどかき回し、揺れさせたのだから。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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