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『偽る人』(揺れる) (第5話)

房子という人(1)

 房子が来てからというもの、土曜日も日曜日も、卓雄の車でスーパーなどに行って、房子が当座必要な下着や靴下などを買い物に行くことで一日がつぶれるようになった。房子が疲れないように車椅子も買った。
 その車椅子や、店に備え付けてある車椅子に房子を乗せて、店を見て回った。
 
 四人いた子供達のうち、三人がそれぞれ結婚したり独立していって、今は恭子の家には末っ子で大学生の息子凛だけが残っている。
もう、長かった子育てはほとんど終わっていた。
 そこに突然房子が来て、房子のために休日もつぶれてしまう。恭子は卓雄に申し訳ないと思った。
 けれど、卓雄はそのことについて不満を言うわけではなかった。不満を言わないでやってくれることはありがたい。半面、言わないだけに、余計、申し訳ない気持ちが増した。
そんな恭子達に対して、房子は「ありがとう」ひとつ言うわけではない。何をやってあげても、当然のような顔をしていた。
 
 一緒に生活して驚いたことに、房子はほとんど挨拶の言葉を発しなかった。
「おはよう」とか、「いただきます」「ごちそうさま」。そうした普通の挨拶の言葉を一切言わない。
「ありがとう」もほとんど言わなかった。
 食事に呼ぶと、二階から降りてきて、テーブルの前に黙って座る。そして、恭子がお茶を入れたり、ご飯を盛っている間に黙って食べ始めていた。恭子は呆気にとられた。
 行儀も悪かった。足を組んで椅子にもたれて座る。頼りない箸の持ち方で、房子に取り分けたテーブルのお皿からおかずをとると、床にポロポロこぼす。食べる前には湯飲み茶わんのお茶の中で箸をしゃかしゃかかき回して濡らす。入れ歯に挟まった物を箸でつつき回して、その箸をティッシュでぬぐうこともしないでテーブルにそのまま置く。
見ていて気分が悪くなるようなことばかりだった。
 房子が恭子によく言っていたやすよへの不満のひとつに「自分の箸で漬物をとる」というのがあった。そんなささいなことに目くじらをたてる房子が、それ以上の行儀の悪さなのが信じられなかった。
 
 中でも恭子が一番気になったのは、房子が手を洗わないことだった。
 房子はやすよが(房子に)「『手を洗いましたか』って、いっつも言うのよね」と何度も言った。それまで何気なく聞いていたのだが、一緒に生活してみて、これは堪えがたかった。見ないふりをしようと思っても、不潔でたまらない。
 トイレから出ても、外から帰っても、例え病院から帰っても、房子は手を洗わなかった。房子は出かけた時のそのままの服装で一日過ごしたし、そのまま夕飯も食べた。
洗わない手で、房子はりんごの皮をむいた。お茶を入れるのに、茶筒から洗わない自分の手の平にお茶の葉を入れて分量を量って急須に入れた。そうやって洗わない手で入れてくれたお茶を、恭子は飲むのが気持ち悪かった。ずっと一緒に生活していたやすよが「手を洗いましたか」と言うのは当たり前だった。言われる房子の方が恥ずかしい。
 それでも、房子に「手を洗って」とは言えなかった。
 房子は外で、上品で教養のある先生で通っている。その人に、子供に言うような当たり前の注意を言うことが、ためらわれた。
もともと、恭子は房子に普通の親子のように親にぽんぽん言えるような気安い間柄ではなかった。小さい頃から親しく接してこれなかった房子に、遠慮があった。
 しかし、嫌なことをがまんすることは、気持ちも体も疲れる。毎日堪えることで恭子はストレスがたまっていった。

 けれど、房子と暮らすうちに、恭子は房子の行儀の悪さだけでなく、知らなかった裏の面をいろいろ見ていった。

 最初にびっくりしたのは、イタリアの女の子が来ていた時だった。
 彼女はまだ十六才だったけれど、日本のアニメやドラマを観て日本が大好きな子だった。日本語も語学学校で勉強するまでもなく、上手だったので、房子ともよく会話ができた。房子も、気さくで明るいその子が気に入っていたようだった。
 ある日、房子は彼女が古着屋で買ってきた着物の裾上げをやっていた。房子は編み物が好きだったが、縫物は得意ではない。けれど、彼女のために、房子は自分からやってあげると言っていた。
 居間である和室に敷いてあるカーペットの上に座って、房子は老眼鏡をかけて着物の裾をちくちく縫っていた。
 恭子はいつものように忙しく動き回っていた。ところが、どうしたはずみか、隣りの台所からその和室に入ろうとして、敷居のちょっとした段差に片足を思い切りぶつけてしまった。
 そのあまりの痛さに、恭子は飛び上がり、大きなうめき声を出した。右足の親指が、みるみる腫れあがり、爪が紫色になっていった。
 けれど驚いたことに、たった数メートル先に居る房子は、着物から目を離すことも、こちらに顔を向けることもなかった。何事もなかったかのように、無表情に針を持つ手を動かしている。
 これには本当に驚いた。
 勿論房子は耳が悪いわけではない。恭子の叫び声が聞こえなかったはずはない。恭子は驚いたと同時に、ゾッとした。この人は、心が壊れているのか、と思った。
 右足の親指はじんじん痛み、爪は赤黒く変色していっていた。爪は、もう死んでしまったに違いなかった。
 恭子はスマホを右足に近づけて、爪の写真を撮って、娘達に送った。誰かにこの苦痛を共有してほしかった。
 娘達から、すぐに心配するメールが返ってきた。
 それは、恭子が房子に感じた最初の衝撃だった。

 房子の行儀の悪さや冷たさを知るにつけ、恭子はつくづくやすよに同情した。
気の強いやすよだからこそ房子に対抗できるようになったけれど、それ以前に彼女がどんなに我慢してきたか、恭子は知っていた。気が強いけれど、やさしい所もあるのを知っていた。
 房子はそれからも毎日延々とやすよの不満を繰り返した。恭子の中では、房子に言いたいことがたまっていた。言えない自分が情けなかった。
 けれどある日、恭子はとうとう思い切って言ってしまった。
「おかあさんも悪い」と。
 房子は一瞬暗い顔をして黙った。暗い顔というより、恐ろしいくらい他人の顔だった。そして、それっきり房子は自分から恭子に話をすることがなくなった。
 話と言っても、房子が恭子にしゃべるのは、やすよへの不満話ばかりだった。恭子はただのはけ口でしかなかった。
実家に住んでいた時も、恭子のことで何かを尋ねたり、心配することなどまるでなかった。恭子が小さい頃から、房子は実の娘にまるで関心のない母親だった。

 恭子が房子に言いたいことも言えなかったのは、昔から房子がほとんど家に居ることがなく、親しい間柄ではなかったこともある。恭子にとって房子は、母親というより、たまに顔を合わせる父親のような存在だったのだと思う。小学生の頃、近所の女の子が、自分の母親にぽんぽん文句を言うのを聞いて、びっくりしたものだった。後になって思えば、それが普通の親子の姿だったのだろう。
けれど、今回の房子の強引な行動に対して恭子が何も言えなかったのには、もうひとつ訳があった。それは、卓雄にも言っていない房子との間のやりとりだった。隠していたわけではないけれど、その全貌を言うのがはばかられていた。
 卓雄は恭子に対して度量が狭く、気が短い時もあったが、房子に対しては明るくやさしい婿だった。
 房子はやすよの不満を言う以外は、暗く、寡黙になりがちだった。それでいて威圧的だ。そんな房子に、卓雄は屈託なく話しかけた。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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