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『偽る人』(揺れる) (第77話)

施設での日々 2(1)

 房子がいなくなってからも、恭子は相変わらず忙しかった。
亜美に4人目の子供が生まれて、一週間ほど孫ふたりを預かったりもした。いたずら盛りの子供達の世話は、六十代半ばにもなると、さすがに体はきつい。けれど、ひとりで奮闘している亜美の体も心配だった。
留学生のホームステイは既に止めていた。食事の支度をするのが辛くなってきたのと、家を空けられないことが大きな理由だった。

 施設に行ってから初めて迎える正月、一日に卓雄ひとりで房子を迎えに行ってもらうことになった。恭子は無理がたたって、年末から熱を出し、まだ体調が万全ではなかった。
 それでも、毎年正月には恭子達の家に子供達や孫たちが集まるために、部屋の準備や、布団の用意、食事の支度で忙しかった。
 房子は家に入っても、相変わらず何もしゃべらなかった。つまらなそうな顔で、テレビの前に座っている。恭子がばたばた忙しく、せっかく来たのに、相手をしないせいかと思い、動き回りながら、時々房子に声をかけた。
 そのうち久美や亜美たちが、頼んでいたお寿司などを持って集まってきた。房子はひ孫たちに会って、ようやくうれしそうな顔をした。
それから例年のように、にぎやかに宴会が始まり、房子も驚くほどよく食べた。

 一日の夜には、家が遠い亜美一家だけが泊まる。恭子はお風呂の支度をして、房子の入浴後に着替えた洋服を部屋に運んで、少しだけ話をした。亜美も子供達を寝かしつけているのだろう。静かだった。
房子は既に布団に入っている。部屋が寒いので、恭子は房子のベッドの傍らの椅子に座って、時々房子の布団に足を入れた。そんなふうに房子に近づくことは、滅多になかった。
恭子はお金のこと、葬式のこと、お墓のことまでさらっと話をした。普段なら言いにくかったことが、何故かすんなり話せた。
房子は意外にしっかり答える。恭子は房子の頭がまだボケてもいないことに安堵した。
 ここに帰ってきてどうだった? 施設の方がいい? と訊くと、房子は返事をしかねていた。三月のひな祭りの頃、暖かくなったら、また帰ってきたい、と房子は言った。
 話していて、涙が出る。帰ってきたい、と言ったなら、きっと受け入れるだろう。きっとまたあの辛さを味わうことが分かっているのに、どこかでそう言ってほしい気持ちがあった。一日の夜も、二日の夜も、ベッドの上の房子を抱きしめてから、階下に下りてきた。

 三日の夕飯から施設で食べることになっていたので、スーパーで房子が買いたいものをいろいろ買ってから、施設に送り届けた。
 房子は施設に着くと、途端にもう「あちらの人」の顔になっている。たくましいものだ、と思った。
 その日の午前中に、房子は封筒と便箋をちょうだい、と言って、部屋でなにやら書いていた。あとで読んで、と言っていたそれを帰ってから読むと、やさしくしてもらって、うれしかった、ごちそうをお腹いっぱい食べられたと、感謝の言葉が書いてあり、お年玉として、通帳から〇万円とって、とあった。
そんなお礼の仕方があったことに恭子は驚いた。房子の気持ちがうれしかった。

 けれど、思い出してみても、施設に入ってから房子に優しい言葉をもらったのは、後にも先にも、その一回だけだった。

その次に恭子達が施設に行くと、エレベーターを降りたとたんに、きつい尿の臭いが鼻をついた。最初来た時には、まったくしなかった臭いだ。
廊下を歩いていると、新しく入ったらしい人が、部屋の中から戸を開けようとガタガタと大きな音をずっとさせて、異様な感じだった。こんなところに房子を入れているのかと思うと、胸が痛んだ。
房子は施設の中の尿の臭いを、恭子が言っても気づかないようだった。自分もパッドをあてているし、もともと臭いには鈍感だ。
その臭いは、エレベーター前に人が集まっている時に、特にきつくなった。車椅子に乗って待っている人に、オムツをしている人が多いのだろう。尿に浸されたオムツをあてていなければならない老人達を思うと、辛い気持ちになる。
彼らはここで、幸せなのだろうか。それとも仕方がなく、諦めているのだろうか。
 房子も、本当に、ここで幸せなのだろうか。今ではここで、満足しているようにも見える。
それは、房子の強がりなのだろうか。あるいは、誰にも遠慮のない「自分の城」として、満足しているのだろうか。
 恭子に少しも心の中を言うこともなく、表情もない房子の気持ちを、推し量ることはできなかった。

 その後も月に2,3回は房子のもとに通った。それでもやはり、房子はうれしそうな顔もしない。恭子達は、必要なものを持ってくる運搬係でしかないのだろう。
 もともと房子は、恭子のことに何も興味がない人だった。困っているか、具合が悪くないか、心配してくれたこともない。
 房子にはもう、家に帰りたい、という気持ちもないように見えた。
 
 ある時は、施設から電話があって、房子が転倒して、お尻を打ったと連絡があった。部屋で椅子に乗って、棚の上の物を取ろうとしたという。怪我は大したこともないようだったが、その後頭を打っているようなので、以前かかった脳神経外科を受診したいと本人が言っているという。
 大したことはないだろうと思ったけれど、房子は頭に鈍痛がするとか、食べられない、と訴える。そこで、卓雄が会社を休んで車で行ってくれることになった。
病院は都心にあるので、前日に家に連れてきて、一泊しなければならない。二日がかりだった。そうして翌日に都心の病院に行ってCTを撮った。結果は思った通り異常無しだった。
病院での長い待ち時間もあったので、夕飯を食べて、房子が望んだたくさんの買い物をして施設に送って行くと、十時になった。家に帰ると十一時も過ぎている。恭子達はくたびれ果てていた。房子に何かあるたびに、こうして一日がつぶれていってしまうのだ。
 そうやって大変なことをしても、房子はいつものように、やさしい顔ひとつしなかった。
車の中でも、病院で長く待っている時も、ブスッとして、ろくな会話をしない。ほんとに暗い人だった。房子がいきいきしていたのは、病院近くのスーパーで、買い物をした時だけだった。房子は施設でいつもいろいろもらうからと言って、またチョコレートや唐揚げなど、目を輝かせて大量に買った。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

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