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『偽る人』(揺れる) (第69話)

施設を決断

 どうして具体的に話を進めることになったのか、恭子にもはっきりしないけれど、ある日から、「施設」の話は急に進み始めた。

 それまでもいさかいのたびに、房子はたびたび「施設」を口にしていた。自分の母親のことをいつも「『どけち』だった」とこきおろしていたのに、「父母の所に行きたい《つまり、死にたい》」と言ってみたり、「施設に行く」と、房子は最後の「切り札」のように、必ず言った。それは、房子にとって、とっておきの「守り刀」のようなものだったのだろう。追い詰められて言ってみるものの、ぼんやり思い浮かべるだけで、実際にそうなるとは、思っても見なかったのだろう。

 けれど、その日、恭子は思い余って、「もう止めない」と房子に言った。もう、たくさんだと思った。房子のことで、ノイローゼになりそうだった。限界だった。
 房子が自分の母親だという実感はまるでない。心から話をしたくても、何を言っても、本当に心があるのかと疑ってしまうほど無反応、無感情。いつも、まるで、石の壁に向かって話しているような、虚しさに襲われて、堪えられなくなった。
食事時、恭子が何か話しても、例えば碁や旅行の話になると、よくしゃべったりしたけれど、それ以外は、ひとり関係ない人のように、暗い表情で黙って食べている。
 ちょっと気に入らないことを言われると、「あ、そう」と嫌な顔をして終わる。
 そういうすべてに堪えられなくなって、施設の話に進んでいったのだ。

 それでも、恭子は当初、本当にそんなことになるとは思っていなかった。房子だって、そうだっただろう。
 ところが、それを進めてしまったのは、房子本人だった。
 勝気な房子は、施設の話に乗り気な様子を見せていた。まだ何も決まっていないのに、勝手にデイケアのスタッフに施設について相談していたし、ケアマネにも、電話で相談していた。
 房子にしたら、自分がそういうかわいそうな状態であることを、周りに知らせたかったのかもしれない。同情されたかったのかもしれない。
 けれど、そういう房子の行動によって、施設の話が一層現実的になってしまったのだ。

 年寄り本人が、施設の相談をしたら、家の人はどう思われると思う? 恭子がそう言って怒っても、房子は黙っていた。何が悪いの?という顔だった。

 ケアマネには、恭子達もふたりで相談しに行っていた。大きな梨を6個買っていった。勤務時間内だったので、受け取ってもらえるか心配したけれど、ケアマネは、驚くほどすんなりと、それを受け取った。
 結局、房子からも相談があったので、ケアマネは、施設のことを相談するところを紹介してくれた。ネットで自分で施設を調べても、たくさんあり過ぎて、どこがいいのか分からない。料金も、実際には、いろんな料金が別にかかるようだった。
 
 ネットで見た2カ所の施設を房子に見せると、房子は幸男に頼んで見に行く、と言う。
 幸男に、って、何を言っているの? 順序が違うでしょ。幸男が施設について、何と言っているのか、恭子達になんと言うかでしょ?
 恭子が怒ると、じゃあ、恭子が行ってくれるの? 何を怒っているのか分からない、と言う。
 考えられないのだろうか。それともとぼけているのだろうか・・・。

 そのうち、施設の話が現実味を帯びてくると、房子の態度が変ってきた。施設の相談員が来ることになって、その訪問日が近づいてきて、ようやく実感したのだろう。
房子は急に、ぺースメーカーの補助金が出た、と言って、数万円を持って恭子のところにきた。これまで何度か見てきた房子の作戦だ。勿論断った。これからお金がたくさん要るのだから、大事にして、と。
 食事の時にも態度がまったく変わった。それまでとちがって、自分から話をする。暗く、押し黙っている房子とは別人の、ごく普通の感じだ。ごく普通・・。房子はそれができなかった。
 やればできるんじゃないか、と思った。
 でも、もう遅い。
 そんなふうに、計算高く演じたって、もう遅い。どんなに優しく演じたって、もうだまされない。ほろっとしない。心動かされない。

 相談員は、その日夕方に来た。思っていたより若く、40代くらいに見える男性だった。
 二時間くらい説明を受けて、いろいろ分かった。
 まずは経費だった。かなりかかることが分かった。近々介護保険料が倍になる。施設のお金以外にも、医療費、雑費がひかれていく。房子の年金は、決して少ないほうではなかったけれど、それでも、その他に携帯料金など定期的な支出を差し引くと、毎月いくらも残らない計算になった。
 相談員の説明を、房子は暗い顔で聴いていた。時々、パンフレットをめくってみたりしているけれど、上の空なのがよく分かる。こうして現実を目にして、相当参っているようだった。
 それでも、もう引き返せない。引き返さない。みんなあなたが悪いのだ。身から出たサビだ、と恭子は思った。

 相談員が帰ってから、房子にちらっと話をしたけれど、房子はまったく身を入れて聞いていなかった。
 風呂がわいたので、二階から房子のパジャマやタオルをとってきて、房子が風呂に入った。房子は考え事をしているのか、ぼおっと力なく体を動かしていた。
 房子が二階に上がってから、恭子は卓雄と相談した。費用のことなどを考えて、ここしかないという施設をひとつにしぼった。小さいけれど、新しく、きれいな施設だった。
 その施設のパンフレットを持って二階に行くと、房子は部屋でパソコンの碁をやっていた。もう、夜中の十二時近くになっていた。
 恭子が部屋に入って行っても、房子はその碁の画面を終わらすために、しばらくじっとパソコンを見つめていた。
 恭子が施設の話をしようとすると、房子は、今やすよに電話したと言う。やすよも施設をいくつか見つけているので、ちょっと待ってくださいね、と言ったと言う。
 びっくりした。そんな話は聞いていない。こちらと施設について話もしていないのに、何で? 
「どうして、そんな先走ったの?」
と、呆れて言うと、
「『先走った』?」
と、房子は嫌な顔をした。ここ数日のやさしく、穏やかそうな顔から一変している。元通り、硬く暗い顔をしていた。
 急にお金を渡そうとしたり、食事時に、明るく話し始めたのは、やはり、芝居だったのだ。ここに居ることができないかと、いろいろやってみたのだろう。
 そして、今度は、やすよに電話だ。自分から絶対に電話などしなかった、世界中で一番嫌いな相手に、またすり寄っていったのだ。何という打算的な人だろう。
 施設との連絡、夏冬の衣類の入れ替え、お金の管理、病気になったら・・・、それらを全部、幸男ややすよができるというのだろうか。今までですら、放っておいたあの人達に・・・。
 房子はそういったことを、何ひとつ考えられない。
 施設に入れてしまうことに心が痛み、少し可哀そう、と恭子の気持ちが揺れ始めても、こうして房子は、恭子の心をしっかり冷やすようなことをした。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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