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『偽る人』(揺れる) (第3話)

不満のはけ口として

 幸男が帰ると、房子の口が急に軽くなった。怖い顔をして、嫁のやすよの悪口を言いつのり始めた。
『恭子ちゃんの所に行く、行く、って、行ったことがないじゃないですか』
房子がやすよに言われたという言葉だ。房子はやすよの口調を悔しそうにまねた。怒りで口元がぶるぶる震えている。
「それはひどい言い方ね」
仕方なく、恭子は相槌を打つ。でも、きっと房子だって、またひどい言動だったのだろうと思った。
 結婚する前、恭子は実家でずっと、やすよに対して見下した態度をとる房子を見てきた。気の強いやすよにも、同情するところがあると思う。
やすよはもと人妻であり、アルバイト中に出会った幸男が横恋慕して奪った経緯がある。やすよは中学しか出ていなかったし、お金もない。子供ができて、仕方なく籍を入れたのだ。
かわいい息子のために経済的に援助はし続けたものの、房子はあからさまにやすよを支配し続けた。
けれど、近年、そのやすよがだんだん自分の意見を強く主張するようになってきていた。

 卓雄と恭子の前で、房子は煎茶をすすり、ちょうどひとつ残っていた豆大福を食べると、少し落ち着いた様子を見せた。ソファーにズボンをはいた足を大きく開いて座り、膝の上で両肘をついて、お菓子と湯呑茶わんを持った。幸男の前で見せた暗さはなかった。
 房子の髪の毛は、だいぶ以前からほとんど無くなっている。
もともと薄毛だった。四十代の頃から部分的に毛を足し、部分かつらにして、そのうち普通のウィッグになった。
初めは黒いウィッグだったが、今は白髪が混じって、全体がグレーに見えるものだ。
 ふさふさのウィッグをかぶった房子は、外見は十歳は若く見える。けれど、ウィッグを取ると、わずかばかり綿毛のような白髪がぽわぽわ頼りなく揺れているだけの頭になり、人相がまるで違ってしまう。何年か前に転んで内出血して、溜まった血を抜くために穴を開けた後が、むきだしの地肌に陥没して残っている。

 普段接することの少なかった恭子は、お茶をすする房子の、少し丸まってきた背中をしみじみとながめた。
 恭子にはともかく、卓雄にさえ、突然転がり込む無礼さを詫びない。房子のその行為を、誰もなじることができない。
 老いてもなお、暗黙のうちに恭子を支配し、自分に都合良く使う房子には、強い自信が隠れている。
 娘婿である卓雄を前にしても、平然としていられる自負がある。

 威丈高な房子を前にして気圧されながら、それでも恭子は、房子を大事にしてあげようと思った。今まで離れていることが多かった分、できることは何でもしてあげたかった。

 卓雄はいつものように、房子や幸男になんのわだかまりも見せていない。
 それは、時に頼りなく、時に助かった。

 それからしばらくして、留学生からの電話が入った。イタリア人の女の子だが、思ったより上手な日本語だった。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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