「わたしは仕事ができない」と自覚したい:仕事人としての段階(2/6)【さらば、noteを書く理由(9)】
1はこちら。
できれば働きたくないハードワーカー
前回の話と矛盾するようなことを言いますが、わたしは「できれば働きたくない」人間です。気ままに創作だけをして生きていられたら……というのは今でも時折夢想します。
ただ、現実的にはふたつの理由で、それは叶わないと思います。
ひとつはわたしが「放っておくと、ひたすらだらだらするのが大好きな自堕落人間」であること。
もうひとつは、創作を続けるためにはINPUTが必要で、仕事はそのINPUTにかなり役立つことです。
仕事をしていなかったら、創作活動に対する覇気も、書きたいネタも失ってしまうんじゃないかと危惧します。
ということは、「働きたくない」と言いつつ「さらばって働くの好きだよね」と周囲に誤解される程度にハードワークしている今の状態が、わたしにとってはちょうどいいのかもしれないと思います。
ただそうなると、やっぱりある程度「仕事ができる」と周囲に思われている必要があります。
そうじゃないと自己裁量権を失い、(わたしにとって)退屈あるいは苦痛な仕事をたくさんやらざるを得なくなり、嫌になって離職し、最悪路頭に迷い、精神の安定を失い、創作どころではなくなる……という未来が待っています。
だから「実力と経験」を高めたいというのは、昔から漠然と考えていたのですが、特にここ数年は切実に思います。
実力と経験を高めないと、いつか「期待外れ」になる
数年前、仕事をしている中で気付いたことがあります。
「『仕事ができる』と思われるかどうかは、周囲の期待値との比較で決まる」
ということです。
当たり前じゃん、と思うかもしれませんけど、同時にもうひとつの事実に気付いたんです。
「周囲の期待値は、年々上昇する」
これも当たり前じゃん、と思うかもしれません。
でもよく考えてみてください。この話の前段である「さぁ、ひととしての次元を上げるときがきた」にも書いたように、
「人間の成長は、いつか頭打ちになる」
んです。
ここまで書いた3つを並べると、こうなります。
ここから導き出されるのは、
「人間は、いつか『期待外れ』になる」
ということです。
もうね、これに気付いたとき、わたしは鳥肌が立ちましたよ。
え、やっぱり「そんなの当たり前じゃん」と思います?
本当に? ひとつ例を出していいですか?
変わらないと、変わる
わたしの職場に、「仕事ができる」と周囲に言われていたKさんというひとがいました。Kさんは二十代半ばの若手で、いわゆる「期待の新人」です。
ただ、本人はどちらかというと世の中を斜に構えて見ていて「自分は仕事ができる」ではなく「みんなどうしてこんなこともできないの?」と思っている感じの人材です。
ここから一気に数年後に飛びますが、Kさんに対する周囲の評価は微妙に変わりつつありました。
「仕事はできるんだけどねえ……」
この「……」になにが当てはまるか。
「もう一段難しい仕事もできるようになってほしい」とか「後輩の指導もできるようになったらいいのに」とか「リーダーとして周囲を巻き込んでもっと大きな成果を出してほしい」とか、色々考えられます。
ただ、いずれにせよ「もっとできるはず」という期待が反映される内容でしょう。
強調すると、Kさんの仕事ぶりは変わらず優秀です。なんなら経験を重ねたことによって、数年前より成熟しているでしょう。
でも、周囲の評価は下がります。なぜか?
Kさんの実力の上昇曲線が、期待値の上昇曲線に追いついてないからです。
恐ろしいことに、時間の経過とともに周囲の期待値は右肩上がりになるのが普通です。
だけど仕事の実力なんてそうずっと右肩上がりにはなりません。「普通にがんばっていると」最初のうちは期待に応えられても、時間が経つにつれ、実力は頭打ちになります。
期待値は頭打ちにならないのに、です。
こんなふうに、本人が(劇的に)変わらないと、周囲の評価はいつの間にか変わってしまいます。二十代半ばのときに「あいつは仕事できるね!」と言われていたはずが、10年後には「あいつ、いつまで同じことやってんの?」と言われてしまいかねません。
このことに気付いたときから、わたしは「実力と経験」をかなり切実に求めるようになったのですが、実際にはその少し前に、きっかけとなるような出来事がありました。
ある方に面と向かって、
「おまえごときが、普通にやってなにかを変えられると思ってるのか」
と指摘されたのです。
と、いうわけで次回はそんな話をしていきます。
お読みいただきありがとうございます。
さらばでした!
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