物語をつくると友だちができる。しかも、いくらでも【創作の価値を考える(4)】
こんにちは、さらばです。
今日は久しぶりに自己紹介でも読書備忘録でもない記事を書きます。
ただ今回の話はたぶん、ひとによっては「こいつやべぇやつだ」と思われかねない内容なんですが、もしかするとひとによっては「わかるぅ!」ってなる可能性もゼロじゃないということを期待しながら書きしたためます。
テーマは「物語をつくると友だちができる」です。
しかも、いくらでも。
その名はイマジナリーフレンド
イマジナリーフレンド(以下「IF」)ってご存じですか?
あ、この時点で引いた方いますね? いやいやもうちょっとだけお付き合いくーだーさーいーよー。
まあ言葉のとおり"空想上の友だち"ってことなんで、現実世界には存在しないものです。なので話したことのないクラスメイトを指して「あいつはわたしのマブダチ」とか思い込むのとは違いますから。そこまでヤバくはないですから。ええ。
Wikipedia様から引用すると、定義はこんな感じです。
要するに定義は曖昧です。
通常は児童期によく見られる現象ということですが、大人になってもそーいうこと言うひとがいるみたいですよ。ええ、はい。わたしです。
でもこれが一般的にIFと言っていい内容なのかは解ってないです。ただ定義が曖昧だからまあ、IFなんだろうと思っています。
そしてわたしの場合「IFをつくろう!」と思ってるわけじゃなくて、気付いたらいつの間にか増えていたというのが正しいです。
ちょ、引くのはまだ早いですってば。
物語の登場人物=IF?
物語をつくるとき、当たり前ですが登場人物をつくるじゃないですか。
主人公はもちろんそのほかのメインキャラクターも必要ですよね。
わたしはひとつの物語をつくるとき、細かい設定まで書くキャラクターは大体10人前後になることが多いのですが、そのひとたちのことは、性格や考え方や行動原理、そしてそれを形成してきた過去の出来事や他のキャラクターとの関係性まである程度把握できるようにします。
この時点で、現実で関わる"知り合い"よりはずっと相手のことが解る状態になります。
なに言ってんだ自分でつくってんだから「解る」っつーか「つくる」じゃねーのか、と思われるかもしれませんし、まあ身も蓋もないこと言ったらそうなんですけど、登場人物は、ちゃんと生み出せればもう自分と切り離された別の人間として認識できます。
そして実際に物語の中で話し、行動するのを目の当たりにすると、どんどん親近感が湧いてきます。正直世の中で売られている物語に触れるときよりもずっと、感情移入しやすいです。まあ、なにせ自分で描いてますし、「よく知ってる相手」なので、言動や行動の裏にある彼ら彼女らの想いが我がことのように感じ取れます。
で、人物設定に一貫性があればあるほど「このひとはこういう場面でなにを言って、どうするだろう?」と考えたとき、出てくる答えが作者であるわたしの想像を超えやすくなります。
そうなるともう、わたしにはそのひとたちが"ここではないどこかへ存在する"独立したひとりの人間のように思えて仕方がないのです。
どこかに実際いる、と信じていると言いたいわけじゃなく、物語の登場人物というのはそう思えるくらい一貫性のある人間じゃなければいけないと考えていますし、だとしたらもう、それってどこかにいるのと同じだよなと思います。
「物語⇒登場人物」じゃなくて、その逆
そんなことを何作も繰り返していたら、ふと気付いたんです。
「物語⇒登場人物」
じゃなくて、むしろその逆だと。
作者であるわたしから見れば、先に物語として書きたいことがあって、それを表現するために登場人物を生み出すのですが、登場人物たちからすれば、そんなのは知ったこっちゃないことです。
むしろ、登場人物には登場人物の人生があり、その一部を切り取って使わせてもらうことで、わたしは物語をつくることができます。
少し違うかもしれませんが、これは企業と社員の関係に近いものです。
企業としてはやりたいビジネスがあって、そのために社員を雇う。でも社員からすれば社員の人生があり、その一部を労働力として提供してもらうことで、企業はビジネスが進められます。
いわばどちらもマッチングやエンゲージメントの話であり、Win-Winになれるといいビジネス、いい物語になるんじゃないか、と思います。
あ、もう引いても大丈夫ですよ。
こいつなに言ってんだと思われてもしゃーないと思いながら書いてます。
で。
ここまでいくとわたしの中では、物語の幕が閉じられても、登場人物たちは生きているということになります。だからわたしはいつも、"続きがありそうな物語"を書くと、彼ら彼女らに申し訳ないと思います。というかなんなら今でも思い続けています。
創作者としてのわたしの実力が足りないから、あなたたちの物語の続きを描く機会を得られないと。
おこがましいかもしれませんが、たぶんこれは打ち切られた漫画家の心情に似ているのかもしれません。
IFは人生を支えてくれる
こうして何作も書いていくと、何百人ものIFができていきます。
一年生になっても友だちは百人できませんでしたが、大人になってその何倍ものIFができました(ほんとになに言ってんだわたし)。
そして現実を生きながら、ことあるごとに「あのひとだったらどうするだろう」とか「あのひとはこんなとき、簡単に諦めたりしなかった」とか「あのひとみたいにはなりたくない」とか思ったり、劇中の台詞を思い返して鼓舞されたり、慰められたりします。
もちろん、現実にいる友人やお世話になったひとを思い返して同じように支えられることもたくさんありますが、わたしの中では、そういう意味に限っては(←ここ重要)現実の友人もIFも大差ありません。
だってどっちも突き詰めたら、自分の中の思い込みじゃないですか?
五感を通じて得た情報から自分の中の「○○さん」という像を形成する、というプロセス自体はなにも変わりません。
例えば『スラムダンク』に感動してバスケを始めるのと、現実のプロの試合に感動してバスケを始めるのと、優劣があるとは思えないということです。
ちょっとなに言ってるか解らないかもしれませんが、だからわたしは押切蓮介さんの『ハイスコアガール』が大好きですし、赤坂アカさんの『ib - インスタントバレット』が今も強く印象に残っています。
人生の役に立つならIFに支えられることに一片の引け目もありません。
むしろ物語を書き続けることで、IFが増え続けてくれることはすばらしいことだと思います。
わたしの場合はIFを増やしたいから物語を書いているわけじゃないですが、もしそういうひとがいても全然いいんじゃないでしょうか。
というわけで、創作の価値を考える(4)では、物語をつくるとイマジナリーフレンドが増え続け、彼ら彼女らが人生に与える好影響について語りました。
あなたは「こいつやべぇやつだ」と思いました?
それとも「わかるぅ!」ですか?
お読みいただきありがとうございます。
さらばでした!
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