和生菓子の職人として58年、会社の歴史と伝統技術を今につなぐ
伝統的な技法を用いて、四季のうつろいや美しい自然を表現する上和生菓子は和菓子の花形です。創業者である岡部式二も「現代の名工」として表彰されるほど、極めて優れた和菓子職人でした。製造部 和菓子課の渡邉明春さんはその技を師を通じて受け継ぎ、現在札幌千秋庵で唯一「師範」の資格を有する和菓子職人です。現在は主に上和生菓子の製造を担当しています。
今回、「一日千秋 編集室」は渡邉さんにご自身の和菓子職人としての歩みと札幌千秋庵の当時の歴史をうかがいました。
千秋庵製菓の職人としての歩み
―お菓子づくりの道を歩もうと思ったきっかけは?
渡邉: 私が子供の頃、テレビで放送されていた情報番組の合間に「山親爺のCM」が流れていました。CMを何度も見ているうちに「出てきた、出てきた山親爺♪」のフレーズが頭から離れなくなり、気がつくとよく口ずさんでいましたね。
このCMのおかげで千秋庵製菓という会社を知り、「ここで、お菓子を作りたい!」と思ったというのが、私がお菓子づくりの道を歩むきっかけでした。
― 千秋庵製菓に入社した当時のことについておうかがいします。
渡邉:私が千秋庵製菓に入社したのは1965年(昭和40年)、15歳の時でした。もちろん「和菓子職人になりたい!」と意気込んで入社したのですが、最初の配属は「販売部 業務課 配送係」という部署でした。実は当時、入社年度が同じでも「入社をした順番が早い人」から優先的に工場に配属されていたようで、入社前の私はそんなことを知る由もなく…たまたま同期たちよりも入社日が少し遅かったため、「配送係」からのスタートになりました。
配送係の仕事は、お茶会や旅館などからご注文をいただいたお菓子を段ボールに入れて、自転車の後ろの荷台に積んで運ぶというものでした。
静内出身の私は札幌の土地勘がなく、まずは「札幌の道を覚える」ことに苦労しましたね…。さらに、自転車に積んだ荷物(お菓子)が重くてバランスがとれず、転ばないように…お菓子が崩れないように…必死で配達していたことを、今でも鮮明に覚えています。
菓子職人としての修業時代
― 最初の配属が配送係だったとは驚きでした。では、菓子職人としてのキャリアはいつからスタートしましたか?
渡邉:入社2年目に念願の工場勤務となりました。「製造部 焼物課」に配属され、どら焼の「生地の仕込みと焼き」の工程を担当しました。
作業内容としては、生地を仕込み、仕込んだ生地をタンクに入れてかき混ぜて鉄板に流し込みます。その後、生地をひっくり返しながら1枚ずつ手作業で焼き上げ、焼き上がった皮を大きな番重(※注1)に入れるまでを担当していました。
渡邉:ほかにも「デラックス栗饅頭」や「鮎」などを製造していました。まだまだお菓子の成形は任せてもらえず、「種切り(※注3)」の工程が私の役割で、その次の餡を包む工程は先輩の仕事でした。先輩の作業は速くてきれいです。私がどんなに速く「種切り」をしても、先輩が餡を包むスピードの方が速く、すぐに「種(※注2)」が足りなくなります。
すると先輩が「トン、トン、トン」と、机の端を叩いて催促してきます。「早くしろ!」という無言の合図ですね…。当時の私は速さを保ちながらきれいに「種切り」をすることに必死でした…。
毎日この作業をしているうちに、私の「種切り」のスピードが少しずつ上がってきて、先輩から「早くなったな!」と褒められたときは嬉しかったですね。
― 修行時代はどのように過ごしていましたか?
渡邉:同期たちより工場勤務が1年遅れたこともあって「負けたくない」という気持ちが強く、昼休みも休まず練習をしていましたね。とにかく早く仕事を覚えたくて「片手で卵を回す練習」をしていました。そうすることで、繊細な生地を素早く丸めるための、指先の力加減や感覚を養えるんです。空き時間があればずっと卵を回し、寝る時も布団から片手を出して卵を回していました(笑)
日本の四季を写す色鮮やかな上和生菓子
渡邉:日本の伝統的な和菓子は、大きく「上和生菓子(生菓子)」、「半生菓子」、「干菓子」の3つに分かれています。その中で私が主に担当しているのが「上和生菓子」です。餡の原料となる小豆や手亡豆といった素材を選び、「練り」・「蒸し」・「焼き」などの技法を用いて多様な味わいを生み出します。
また、「上和生菓子」は見た目の美しさがとても重要です。毎月数種類をご提供するため、練切りはもちろん、求肥、羊羹、寒天、饅頭など、飽きのこないバリエーションをご用意しています。
※2023年10月現在:札幌千秋庵本店で 毎月3種類の季節の上和生菓子をご用意しています
― 淡い色合いが多く、優しい味わいが特長ですね
渡邉:「目で見て楽しみ、食べて美味しい」こと、そのうえで「体にも優しいお菓子」を目指して、できるだけ天然の素材を使用し、自然な色合いに仕上げることにこだわっています。
― 上和生菓子をつくるうえでのこだわりは
渡邉:季節の草花や風景、自然の中にあるものをお菓子にしたらどうなるのかをイメージしながら作ります。
この仕事をするまで花にはまったく興味がありませんでしたが、今では花を見ると「お菓子にしたい!」とじっくり観察してしまいますね。
過去に作ったお菓子も参考にしながら、木型で作った葉や花びらで餡を巻いたり、包んだり、絞ったり、細かな縦筋を入れたり…。様々な技法を使いながら、新しい表現を加えて今までにないものを作ろうと考えています。ちょっと工夫をすることで、新しいお菓子に仕上がるんです。
もちろん色彩にもこだわっています。「ぼかし」を入れたり、グラデーションにしたり、色々な手法を組み合わせてカラフルに仕上げます。
また「お菓子は生き物」なので、温度管理がとても大事です。何か一つでもバランスが崩れると味わいや食感がすべて変わってしまうので、これまでお話をさせて頂いたポイントをはじめ様々なことに気を配りながらひとつひとつ丁寧に作ります。これが創業者 岡部式二さん、二代目 岡部卓司さん、そして先輩たちから受け継いできた和菓子職人としての姿勢であり、こだわりです。
創業者 岡部式二、二代目 岡部卓司について
― 渡邉さんは、現在の千秋庵製菓の従業員の中で、創業者 岡部式二さんと直接お仕事をされた経験がある唯一の職人だとうかがいました。式二さんはどのような人でしたか?
渡邉: 私たち和菓子職人にとって、式二さんは「お菓子づくりの神様」のような存在でした。私は直接教わることはありませんでしたが、先輩たちに厳しく指導する姿から、お菓子づくりに対して妥協は一切許さない方だということは伝わってきました。
式二さんは、「お菓子は生きもの、お菓子作りにこれでいいということはない」とよく口にしていました。
お菓子作りは、一つよくできたと思ってもまた次がある。そこができても、また次がある。なかなか簡単にはできない。更につづけていくと、また次の道が敷かれている。まさに「これでいいということない」という言葉の通り、そこには厳しさと奥深さがあります。
和菓子職人を続けてきて、ようやくこの言葉の真の意味を理解できるようになってきたと感じています。
― 式二さんのお菓子づくりに対する厳しさを感じたエピソードはありますか?
渡邉:私が入社したばかりで配送を担当していたときの話です。
その日はいつもよりも製造数が多く会社全体が慌ただしかったと記憶しています。私は商品を配送するための待合所で、「紅白餅」の配送準備が整うのを待っていました。そこへ式二さんが突然現れ、その場にいた製造担当者に「この紅白餅は何時に作ったのか」、「お客様はいつ召し上がるのか」と質問をされました。製造担当者からの返答を聞いて「最良の状態でお客様に召し上がっていただけるものではない」とわかった瞬間、「お菓子は生き物なんだ!作りなおしなさい!」と厳しい言葉で指導をする場面を見たことがあります。
「味、香り、歯触りなど、全てにおいて最良の状態でお客様に召し上がっていただくことを大切にしなくてはならない」と日頃から厳しく指導されていた式二さんの想いに直に触れたこの出来事は、私が和菓子職人としての大切な心構えを自分自身に刻むきっかけになりました。
― その他の想い出などはありますか?
渡邉:式二さんが全国の菓子製造会社としては初めて「現代の名工」に選出され、このことがきっかけでテレビ番組に出演することになりました。その時に、阿部 元工場長と私も一緒に出演させていただいたことはとても思い出深いですね。
ー 二代目・岡部卓司さんはどのような人でしたか?
渡邉:とにかく「お菓子の研究と開発に熱心な人」という印象が強いです。「こうしよう!」と思い立ったらなんとしても成し遂げる、実行力に溢れた方だったと記憶しています。父親である式二さんを師匠として尊敬していて、いつも傍で支えていた印象があります。例えば…式二さんが「このままでは菓子づくりの技術を継承できない」と口にすれば、「では、学校を作りましょう!」とすぐに行動に移し、職人の資格取得を支援する「千秋庵短期大学」を作り上げました。
卓司さんの凄さは「必要と思うことは、すぐに実行して実現するところ」だと私は思っています。未来のことを広い視野で見据え、今何が必要かを掴み、確実に実行する方でしたね。
― 卓司さんとの想い出やエピソードはありますか?
渡邉:札幌千秋庵のお菓子が使われているお茶会に、卓司さんが一般の参加者として出席されていた時の話です。その場にいたお客様が札幌千秋庵のお菓子を召し上がった時に「今日のお菓子は甘すぎる」とお話されていた、いわば“お客様の生の声”を聞き、「すぐにレシピを変えなさい!」と厳しく指導を受けたことがありました。
卓司さんは時代とともに変化するお客様の嗜好を捉え、すぐに改善をします。すぐに決断し実行できるのは、常に世の中のことや、お菓子のことを勉強しているからこそだと感じた出来事でしたね。
渡邉:卓司さんは式二さんの背中をずっと見て二人三脚でやってきているので、「お菓子作りに対する厳しさ」も式二さん譲りだったのだろうと思います。いつもお菓子のアイデアを考えていて「こんな商品を作ってみてほしい」と試作を依頼されることも多かったですし、パッケージも含めて札幌千秋庵のすべてを手掛けていましたね。
流行にも敏感で、北海道ではまだどこでも取り入れていないお菓子を作ったり、海外のイベントや文化を積極的に取り入れることも多かったですね。
昔の札幌千秋庵本店の窓の外に、毎年冬になると登場していた子どもたちの姉弟マネキンがありましたよね。あれも卓司さんのアイデアです。
― お菓子が食べたくて窓の外からのぞいている姉弟の姿が印象的でした。テレビ番組に取り上げられて、お客様からもたくさんお問い合わせがありました
渡邉: 社内報「文芸千秋」も卓司さんの発案です。お客様はもちろん、従業員を楽しませたい気持ちが強くて、新年会、お花見、よさこいソーラン祭、社交ダンス、ボーリング、野球など、レクリエーションを積極的に開催していました。私もいろいろと参加しましたが、卓司さんが自ら先頭に立ってやっていましたね。
これから職人を目指す皆さんへ
― 58年間、千秋庵製菓をずっと見続けてこられた中で“変わった”と感じるところは?
渡邉:2022年に中西さんが社長に就任してから、若いお客様が増えたと感じています。札幌千秋庵の本店に行くと、若い方がお菓子を食べている姿を見かけることが多くなって嬉しく感じています。個人的には、以前と比べると和菓子の種類が減って少し寂しい気持ちはありますが、売上を伸ばして力を蓄えて、また和菓子をたくさん作れるようになれたら嬉しいですね。
― これから和菓子職人を目指したい方に向けて、メッセージをお願いします。
渡邉:「この仕事をしたい」と思った時の初心を忘れないでほしいと思っています。
私は「モノを作ること」が好きで和菓子職人を目指しましたが、入社した時は配送係でした。でも、配送係を担当したことで、式二さんの「モノづくり」に対する真剣な姿を直接見ることができました。そしてこの経験が今につながっていると思っています。これもきっと、何かの巡り合わせなのかもしれませんね。これから皆さんが職人の道を歩むなかで、自分の希望とは違う仕事をすることがあるかもしれません。でもその経験は決して無駄にはなりません。人生に寄り道や回り道はつきもの。後から振り返った時に、その経験がきっと力になるはずです。焦らずじっくりと技術を磨きながら時を待つことも必要です。初心を大事に、自分が「こうしたい」と思うことに向かってチャレンジしてほしいですね。
私としては、若い皆さんに対して「昔はもっと厳しかった」ということは言いたくはありませんし、正直なところ、厳しい修行が必要だとも思いません。ですが、そういう時代があったことを知ることは大切だと思います。
岡部式二という「お菓子の神様」のような方がいたからこそ、今の千秋庵製菓があることを、少なくともここで働く皆さんには知っていただけたら嬉しいですね。