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会いたい、追い求めたい輪廻転生~二人の天才をつなぐもの~

鮮烈な天才三島由紀夫と、平凡なサラちゃんが通じ合った理由はなんでしょう。

サラちゃんが愛したものは、文学だけではありません。彼女はものすごく人を愛するのです。愛と言っても安易に異性というわけではなく(更科日記には色めいた話は2回くらいしかないうえに、あまし踏み込まず終わってしまう)彼女の愛は家族や慕わしいひとなど身近なひとに注がれます。

更級日記始まってすぐ、都に上る旅の記録のなかにそれが出てきます。
旅の途中サラちゃんは家族にせがんで、宿下がりをしていた乳母(めのと)の実家に立ち寄ります。出産で身体を壊し退いていたのです。

………いと恋しければ、いかまほしく思ふに、兄なるひと、抱きて率いていきたり………

どうしても乳母に会いたくて、お見舞いしたくて、お兄さんに抱きかかえられるようにして、訪ねていったと。
この時代のお姫さまは、寺社参りとかでご利益に関わったりでないとなかなか自分の足で歩かない、そんなスーパーセレブの女の子が、身分の低い召使の乳母にどうしても会いたくて、旅の途中の家族総動員でお見舞いに来てしまう。
これ見舞われる方は何気に困りそうなんだけど、乳母もほうもサラちゃんが可愛くてしかたなかったのでしょう

……いと白く清げにて、めづらしと思ひてかきなでつつうち泣くを、いとあはれにみすてがたく思へど、急ぎ率いていかるる心地、いと飽かずわりなし。面影におぼえて悲しければ、月の興もおぼえず屈じ臥しぬ……

召使の身分に似合わず色白で美しい乳母は、思いがけない訪問に私の頭をかき抱いて髪をなでつつ泣いていて、そんなんされたら、ますます乳母が大好きすぎて立ち去れない。さすがにお兄さんたちをずっと待たせてるわけにもいかずにバタバタと旅に戻るけれど、もっともっと乳母といたかった。乳母の面影を想うと、月を眺める気にもなれなくて拗ねてふて寝してしまう。

乳母のほうでも仕事先のお嬢さまというだけでなく本当に可愛がっていたんでしょうね。お兄さんもそんなサラちゃんのわがままをきくなんて、かなり優しいとおもうけれど、都に上る大行列、さすがに長居は迷惑だし、スケジュールもあるので仕方なく切り上げたと言うのに、サラちゃんはお兄さんに感謝するどころかすっかりふてくされてる。そういうワガママで甘えん坊なところがなんとも可愛いなあと私は今は娘を見るような気持で読んだりしてます。

この乳母はしばらくして亡くなり、サラちゃんはその報を京の自宅で聞いて、すっかり塞ぎこんで、臥せってしまう。人生に何も楽しいことなんてないと心を閉ざしてしまう。もう生きてる甲斐もないな、呆然してるところに、伯母さんがプレゼントしてくれたのが、「源氏物語」全54巻でした。

物語を読むことによって、サラちゃんは生きる力を取り戻していきます。
乳母だけでなく、更科日記には多くの人の死の影があります。一緒に育った姉、育ての母親である継母、父親、夫。
更科日記自体が夫を亡くしてのち恋しくて、少女時代からを思い出しながら、書かれた日記です。

「源氏物語」も母親である桐壷の更衣の死から、次々に慕わしいひとが亡くなる喪失を必死で乗り越えていく描写が多いので、そんな作風にも励まされたのでしょう。サラちゃんの描いた「浜松中納言物語」は「源氏物語」の亜流とも位置づけられていて、確かに貴公子在原業平がモデルの「伊勢物語」から通じる、いわゆるイケメンものですが、サラちゃんの作品は、他作品たちと決定的な違いを生むものがあります。それはおそらく次のエピソードに見てとれます。

……花の咲き散るをりごとに、乳母なくなりしをりぞかしとのみあはれなるに、同じをりなくなり給ひし侍従大納言の御むすめの手をみつつ、すずろにあわれなるに、五月ばかり、夜ふくるまで物語をよみておきゐたれば、来つら方も見えぬに、猫のいとなごうないたるを、おどろきて見れば、いみじるをかしげなる猫あり……

花が咲き散る季節に乳母は亡くなられたらしいのだけど(藤壺の宮と同じですね)もう一人サラちゃんにとってゆかしいかたがいます。父から手習い用にと、達筆な侍従大納言の姫君の書を渡されたのですが、実はその姫君も同じ花の散る季節に亡くなったらしく、サラちゃんは胸を痛めます。きっと美しいお手積でサラちゃんは心惹かれていたのでしょう。そんなある日、猫が迷い込んでいます。召使たちのとこには行かず、サラちゃんとお姉さんのところにだけ寄ってきて、しかも言葉を理解するような様子に姉妹で驚きます。

……夢に、この猫のかたはらに来て、「おのれは侍従の大納言の御むすめのかくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずらおにあはえと思ひで給へば、ただしばしここにある。。」といひでいみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり……

なんと亡くなった書の名人のお姫さま、サラちゃんが愛おしいんでくれるからって猫になって会いにきてくれました!サラちゃんのひとを想う気持ちというのは本当にすごいな、と思います。

正直サラちゃんの普段の生活はとても信心深いとは言えません。
「源氏物語」を読み耽ってたら夢枕に僧侶が立ち、女成仏の5巻を読むといいよと言われるけど、「私はいつか大きくなったら美しくなって、夕顔や浮舟のように愛されるんだー」とか夢見てぜんっぜん聞いちゃいないですw
この時代はお告げがだいたい夢枕なのか「天照大神を信心しなさい」という人も誰かしらんけど何度も夢に出てくるけれど、サラちゃんそのたびにスルーしてますwヒドいww
本人も信心大事よねーと何度もいいつつ、自分の信心のなさを嘆くばかりで、結局はなんもしてないです。このグータラさw

宮仕えについてもキャリア志向というわけでもなく、姫宮さまのところに参内するも、とくにガツガツ会話に参加するでもなく、ただいたずらに年を重ねて、ベテランになるわけでもなく、居心地もよくなくて所在無い、みたいなことを延々と書いてます。そのわりには上からのお召しもあって財をなしているのですが、おそらく物語を書くことで重宝されたのであって、人付き合いの方はからっきしダメだったのでしょうね。

鮮烈な才能の三島由紀夫と違ってサラちゃんは平凡です。意識的に平凡さに踏みとどまってるフシもあります。
紫式部のように大長編を書き上げ、道長さまにも愛されちゃってるのよーアピールもないし、清少納言のように鮮やかな感性で枕草子を書き、漢詩の知識もあって中宮定子さまのおぼえもめでたいのよ☆でもなく、和泉式部のように歌の才能でチート状態すぎて王子さま2人夢中にさせちゃったわーみたいなんもない。
サラちゃんは作品も仕事も恋もフツー。

サラちゃんにとって人間関係とは、恋愛でも自分に利益のあるキャリアでもなく、本当に身近な生活の中での、素朴な人と人との気持ちのふれあい、その人たちがいなくなってからの恋しさ、そして、特に信心深いわけではないけれど、そのひとたちに再び会いたい一心だけで、仏教の輪廻転生を信じていたのでしょう。

「浜松中納言物語」は、「源氏物語」や「伊勢物語」と同じくイケメンもののようで、冒頭から、亡くなった父親が生まれ変わった唐土の王子に会いに行くところから始まります。物語全体を通して、愛と生まれ変わり、輪廻転生を求めた放浪の物語です。
三島由紀夫の豊穣の海も、主人公が輪廻転生を繰り返しながら真理を探していく物語。こちら側とあちら側を越えて、愛しいひとや、かけがえのない真理を追究する物語です。

東日本大震災後、放送が難しくなってしまった崖の上のポニョも、海の中と陸とが混じりあい、死と生、時代も交じりあいます。それは宮崎駿さんの、仲間がどんどんあちら側へ行ってしまうなかでの、悟りの物語のようでもあります。
エヴァンゲリオンのラストもそんな感じですよね。

私は芸術でもなんでも、本物には喪失が宿っていると思います。私が愛するビートルズの音楽たちも、そこにジョンやポールの母親、親友、かけがえのないひとたちの喪失があり、その悲しみや思い出を音楽で紡ぐからこそ、人の心に響くと思っています。
「浜松中納言物語」は、サラちゃんのそうした人を愛するこころ、そしてそのひとたちをを失う喪失、喪失を物語や想いで紡ぎ、乗り越えようとしたからこそ、輪廻転生の思想が、死を前にした三島由紀夫に千年の時を越えてとどいたのだと思います。三島由紀夫自身にも死を越えて追い求めたい愛や思想があったのでしょうね。

私は仏教の世界に詳しくなく、輪廻転生と言われてもイマイチわかりづらいところがありますが、サラちゃんの物語を愛する気持ち、ひとを愛する気持ち、それを失った時、なにかを紡ごうとする気持ちは、どれもとてもよくわかる気がします。そして、そういう気持ちがあるかぎり、喪失を経験したとしても、決して孤独になることはないと思うのです。追い求める気持ちこそ、人や時代や才能たちを繋ぐのですから。


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