家を「ひらく」という発想
自分の考えを表に出すということは、己の無知をさらすことだと思う。
ちょっと恥ずかしいけれど、意外なリアクションがあったりして、自分の中だけで考えるよりも広く深い理解に繋がる気がする。最近、自分の考えを文章に書いて公開したところ、思いがけない人から熱いコメントがあって嬉しくなった。初めて知るその人の姿があり、一気に親近感が湧く。SNSで流れてくるのは笑顔溢れる写真ばかりだけど、その裏に皆葛藤を抱えているのかもしれない。そして、私の長い文章を読んでくれてありがたいなあと思う。
私は先日「介護と育児は似ているのではないか」という仮説を立てた。
それに対して、介護も育児も経験した友人がリアルな体験を教えてくれた。彼女の意見は、「介護は育児の比にならないほど辛くて大変」。なぜならば、「介護は、非介護者のこだわりや要求がある」「下の世話は、子どもより大人が大変」などの理由からだという。また、「自分の生活+介護、育児」と「自分の生活=介護、育児」では全く違うこと。自分が当事者として毎日24時間向き合い続けなければいけない場合の負担の大きさは計り知れない。
人が相手である限り普遍的なものはないが、当事者としての実感を例に出してくれたことはとても興味深い。介護も育児も、当事者としてがっつり向き合った経験のない私は、知りもせずに数日間の介護体験から偉そうに語ってしまって「恥ずかしい!」という気持ちでいっぱいだった。
でも、そのあと自分なりによくよく考えたけれど、「やっぱり私は介護と育児は似ている」と思うのだ。「家のこと」として家族親戚など血縁内で完結しようとすることを当然とする点において。そして、「家のこと」でとどめず、ひらく意識を持つことが、当事者が(ほぼ)一人っきりで育児や介護と向き合う悲しくて苦しい時間をもう少し軽減できるのではないか、とも。
産後の養生を、同じ思いを知る人々で助け合う「産褥ヘルプ」というシステムを考えたのは、NPO法人マドレボニータである。産後の友人の家に、お土産のお菓子を持ってめかしこんで行くのではなくて、なんなら夕食のおかずを一品持っていって家事を手伝いに行く気の張らない訪問。家が汚ければ、掃除を手伝う。お客さんが来るから家を綺麗にする−−という考えの逆の発想である。お客さんではなく、お手伝い。そこにお金は発生せず、お互い様の精神で、今度は自分に余裕がある時に誰かのヘルプに入る。
こうして循環していくシステムは、「家のこと」を完璧にうちうちにとどめる家に育った私にとって、とても斬新で、最初聞いたときには「私には絶対無理」と思った。
でも、こういう風にコミュニティ機能で足りない部分を補完しあうシステムは、とても良いなあと最近強く思うのだ。そのためには、自分を「ひらく」必要があるのだけれど。でも、そもそもそんなにクローズに閉め切らなければいけない理由なんて、あるのだろうか。
産褥期は限りがあること、介護は無期限なことなど違いはあるが、「家のこと」でとどめない方法は何かないものか。介護の負担を、もっと分散させる方法はないものか。その一つの方法がきっと普段からの地域活動なのかなと思っていて、最近それも考えながら自分の住む地域の活動に参加している。友人と家をシェアして住むことも、私にとっては大きなチャレンジであり、「自分をひらく」ことのメリットデメリットを、身をもってして実験している最中である。今日の所は以上です。