のぼせもん
“のぼせもん”。
最近、地域のまちづくり会議でこのことばが出てきて、おっと思った。
「この地域の人はみんな性格がおとなしいから、自分がやる!という“のぼせもん”でもおらんと、物事は前に進まんぞ」といった文脈だ。ニュアンスとして、ネガティブな意味だろうか、ポジティブな意味だろうか。会議から私の思考がぽーんとよそへ行く。会議の中では、「そういう人がいるのであれば、まあやってみろよ」というわりとポジティブな使い方をされていた。
“のぼせもん”を調べてみると、博多弁で「夢中になる」という意味らしい。別に、ネガティブでもないのか。そして、山陰の言葉でもないのか。なぜ私はこんなにも“のぼせもん”に反応したのだろうか。
会議中には思い出せなかったけど、ずっと考えていたらじわじわと記憶が蘇ってきた。そういえば、私はこのことばを前にも一度だけ聞いたことがあった。
あれは一昨年、島根県の出西窯の炎の祭りに行ったときのことである。前日にちょうど安来の加納美術館であった「出西窯70年の歩み」という展示を見て私はいたく感動していた。永六輔さんのこの言葉も良かった。
出西窯の職人さん達は
窯を育ててきたというより
窯に育てられてきました。
出雲のために 器をつくらせていただく
拵えたものを使っていただく
その姿勢に貫かれ
さらにこの土地の多くの職人さん
鉄を打ち、紙を漉き
糸を紡ぎ、染め、織りあげる
そうした人々に支えれた
心優しい仕事場。
僕の旅の中で
行くのではなくて帰るとすれば
それは出西。
(永六輔)
出西窯では、器を作った人の名前は表に出さず、あくまでも出西窯として外へ出す。作家ではなく、職人。また「仕事が仕事をしている」と謳う民藝の巨匠河井寛次郎の「仕事のうた」を毎朝皆で唱えてから仕事に入るという。そういう謙虚さや仕事への姿勢に心を打たれた。
そんな状態で出西窯に行った私は、知り合いの陶工さんに「出西窯ってとても素晴らしいですね」と前のめりで言った。そのときの彼の返答が…
「いやいや、僕はただの“のぼせもん”ですから」
だったのだ。
なんてこと。
かっこよすぎるでしょう。その時も、感動して鼻血が出そうになりながら、“のぼせもん”という初めて聞く単語がえらく気に入って、のぼせもんのぼせもん…と念仏のように唱えていたのに、月日が経ちすっかり忘れていた。そうだった、そうだった。
書いていて、私こそがのぼせもんなんじゃないかと思い苦笑しながらも、これこそことばの記憶だと嬉しくなる。“のぼせもん”。今度こそ、マイボキャブラリーに追加しよう。