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 友だちとLINEする。おはようーとか、今日も原稿書くぞー、とか。あれが今こうで心配だ、とか。友だちも私に相談ごとを送ってくる。やりとりを眺めながら思う。そこに「ないもの」を見ているとき、人は不安になる。そこに「あるもの」ではなく「ないもの」を自ら作り出し、勝手に不安になる。朝起きて、リビングに散らかったコリスのペンやクイズを書いた紙を拾いながら思った。片付けてねっていつも言ってるのに、また散らかしたままだなと、最初は思った。これがいつもの私の思考パターンだ。散らかったペンや紙の場所から目線をずらしてみると、コリスがいつも作業しているリビングの机の上はきれいに片付けられている。ちゃんと片付けしてるところもあるじゃん、と思った。やってないところばかりに目がいくけれど、やってるところもある。ないものに目がいくけれど、少し目を逸らせばそこには、ある。あるものも、ないものもある。ないばかりでは、ない。

 仕事をしながら、人付き合いをしながら、ときどき不安になる。あれ返事ないな、反応ないな。「ない」から、不安の自動生成が始まる。書きながら思ったけれど、「ある」を自動生成することも無駄だ。ありもしないものを生成しなくて良いのにやってしまう。今ここに「ある」時に見ればいいものを。「ある」とか「ない」とか自分で生成しない方がいい。他人の相談に乗っていると、ないものを自ら生成して見ていることがよくわかる。自分も同じように相談していることに気付く。その状態にあることに自分ひとりでは気付けなくて、他人から「ない」と言ってもらってハッとする。自分ではない他人の存在は大切だ。今思っていることを出して一緒に見ることができる。こうして書き出すことでもできるのだろうけど。他人にハッキリと「ないよ」と言われて、やっぱりないかと思える。出しているものを一緒に見てくれる人がいると心強い。


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