禅の道(15)不戯論
要旨
「不戯論」とは、無益な議論や、真実を求めない空虚な言葉に囚われないことを意味しています。これは、無駄な議論をせず、言葉を慎み、軽々しい口論を避けるという意味です。無意味な論争は、自己満足や自分の考えを押し通そうとする心から生まれやすく、それが煩悩の原因にもなります。道元禅師は、この「不戯論」を通して、真に大切なことに心を向け、実践に基づいた学びを大切にするよう説かれています。
解説
「八大人覚(はちだいにんがく)」は、仏道を実践する上での重要な覚悟であり、煩悩を滅するための八つの心得です。その中の一つ、「不戯論(ふけろん)」は、不要な議論や虚栄的な言葉を慎むことです。これには、以下のような意味が含まれます。
議論に時間を浪費しない
無駄な議論や口論は、時間とエネルギーを浪費し、精神の平安を乱す原因となります。こうした言葉は、自己中心的な視点から生まれやすく、他人との対立や不和の種になります。道元禅師は、私利私欲を超え、真理や実践に基づく言葉だけを大切にするよう求めています。心の静けさと調和を保つ
無意味な論争や空虚な議論は、心の静けさを失わせます。煩悩や執着が生じやすく、心が乱れる原因になるため、「不戯論」はこれを避けることを教えています。言葉は慎み、誠実に他者と向き合うことが仏道の実践として重要です。内省と実践を重んじる
不必要な議論は、他者と自分を比較したり、虚栄心を満たしたりするために行われることが多く、仏教の根本的な目的である自己の内面の探求や成長から遠ざけてしまいます。道元禅師は、言葉を実践と調和させ、日々の修行や行いに基づいたものにするべきだと説いています。無意味な「言葉の遊び」を戒める
時には、物事の本質を見失い、単なる言葉の遊びに陥ることがあります。そうした「戯論」を避けることで、真理に対する純粋な探求と、実際の行動が一致した修行の道を歩むことができます。
まとめ
「不戯論」は、煩悩や心の動揺を引き起こす無益な言葉を慎み、真摯な実践に専念するための教えです。道元禅師は、言葉を軽んじず、行動と一致するものとして尊重することで、心の静けさと調和を保ち、仏道の道を深めることを説かれております。
釈尊の遺言とされる遺教経(仏垂般涅槃略説教誡経)に、この八大人覚が述べられております。私たちの曹洞宗では、新亡者の枕経としてお唱えすることが多いのですが、このお経を唱えるたびに熱いものがこみ上げてまいります。弟子たちのために最後の力を振り絞って述べられたお言葉です。
釈尊は生身の人間でした。私たちと変わらない身体をもち、老いて死に至る病の中で、なお残していく者たちへ「友よ」と呼びかけ、尋ねたいことがあれば親しい友人に話すようにと促されました。ところがもう誰も質問することは無かったのです。しばしの沈黙のあとで釈尊はこの話をされました。
2500年以上前のこととは到底思えません。父や母が亡くなる直前の最期のときまで、手を握りながら、やがてその手の力が次第に抜けていったときのことを昨日のように思い出します。慈しみあふれる親の思いが伝わって参ります。私にとっての仏祖は父であり母のような厳しくも優しい親です。
道元禅師もまた最期に「正法眼蔵」を一から書き直され(いわゆる12巻本)、その最後の巻がこの「八大人覚」でありました。それほど重要な大人覚でありますが、その結びが「不戯論」です。戯論を避けることが、人間関係で一番大切なことだと、そう教えられたように感じております。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道
怠りなく努めなさい。
釈尊最期のお言葉です。
善哉(サードゥ)