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さっぱり覚えていない読書の歴史

最近になって読書量が減ってしまい、自宅の本棚を眺めながら「昔はよく本を読めていたなぁ」としみじみと思いを馳せていました。

そのまま、昔読んだ本を手に取ってみてパラパラとページをめくって読んでみると、どれもこれも内容をさっぱり覚えていないものばかりで、我ながら驚いてしまいました。あんなに時間を費やして読み込んでいた日々は何だったんだろうかと。

おそらくですが、この感じだと、例えば年間に50冊の本を読んだとしても、そのうちしっかりと記憶に残せているのはほんの5冊前後くらいなのかもしれません。下手をすればもっと少ないかもしれない。

文学で言えば、坂口安吾の『堕落論』も、三島由紀夫の『美しい星』も、読んでいた時には唸るような思いで読んでいた記憶はあるのに、肝心の内容はさっぱり覚えていませんでした。

他にも、スタインベックやヘミングウェイなど、必死で読み込んだ記憶がある本たちの内容は、初めて読むかのようにさっぱり覚えていませんでした。

まだ読み返してみていませんが、もしかしたら、カズオ・イシグロやイアン・マキューアン、アシモフやクラークも、随分前に読んだものは、どれもすっかり記憶から無くなっているかもしれません。

「読書は将来の自分に向けた投資だ」とか言いながら貴重な時間を費やして読んでいた本の内容を今ではさっぱり覚えていない。これでいいんだろうか、と思ってしまいました。

ただ、これでいいと思っています。なぜかと言うと、例え覚えていなくとも、僕はそれらの本を「読んだ」からです。

新しい考え方や知らない価値観を作家の文章を通して自分のなかに取り組み、その文章を読むことを通して自分の頭を使って考えるという行為を、その当時は必死で続けていたわけです。

例え今になって覚えていなくとも、その時に読んで考えたことで、今の自分の血肉となっていることは間違いありません。

本がぎっしり詰まった本棚を眺めるのはいい気分だったりもしますが、最も大切なのはその本を「読むこと」であって、知識や事実を記録して溜め込んでいくものではないのです。

これからも、たくさん読んでどんどん忘れていくよう、読書にたっぷり時間を費やしていきたいものです。メモを取る量はもう少し増やし増やしますが。

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