穏やかな一日に隠された黒義時の恐怖政治
2022年10月16日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第39話「穏やかな一日」が放送されました。
冒頭にまさかのタイムスクープハンター・きり(演:長澤まさみ)が出るとは全く想定していませんでしたが、まぁ、歴史的に複数年に渡っておきたことを一日にまとめるには、彼女のような存在が必要でしょう。
本日は承元二年から建暦元年に至るまでの4年間、この鎌倉で起きる様々なことを1日に凝縮してお送りします。
これは西暦に直すと1208年から1211年までのことです。
しかし、前回の牧氏事件は元久二年(1205)閏七月のことです。
すなわちドラマで触れていない期間が3年間があります。
ここではその3年間も含めて綴っていきます。
元久二年(1205)閏七月以降
新古今和歌集、鎌倉に届く
新古今和歌集は後鳥羽上皇の命(勅命)によって編纂された勅撰和歌集です。撰者は以下の五人
源 通具(正三位 権中納言/土御門通親<演:関智一>の子)
藤原有家(従三位 大蔵卿)
藤原定家(正四位下 左近衛権中将)
藤原家隆(従四位下)
飛鳥井雅経(和歌所寄人/頼朝の猶子)
新古今和歌集の最終的な完成は1210年(承元四年)と言われていますが、『吾妻鏡』によれば、鎌倉にはそれより早く1205年(元久二年)9月2日の段階で内藤朝親(藤原定家の弟子)によって実朝(演:柿澤勇人)に伝えられています。
完成前の段階で鎌倉に伝えられていたのは今回私も初めて知りました。
新しい京都守護赴任と綾小路姫君
平賀朝雅(演:山中 崇)の討伐により、空席となった京都守護には中原季時が任じされ、10月10日に赴任しております。季時は中原親能(演:川島潤哉)の子です。
また11月3日には、尼御台政子(演:小池栄子)の命によって、京都より綾小路師季の娘(綾小路姫君)が鎌倉に入りました。この子の母親は畠山重忠謀反を時政に讒訴した(と言われる)稲毛重成の娘であり、時政の外孫にあたります。
政子は彼女を不憫に思い、身上が立つように重成の旧領の一部(武蔵国小沢郷)を与えました。
後日の話になりますが、政子はこの子の再婚にも奔走しております。
善哉、尊暁に弟子入りす
12月2日、二代将軍・源頼家(演:金子大地)の遺児で三浦義村(演:山本耕史)が傅役を務める善哉(演:高平凛人)は、政子の判断で、鶴岡八幡宮別当・尊暁阿闍梨の弟子になりました。
ドラマでは終盤でいきなり坊主になり京都に行くシーンになっていますが、その前に一度、尊暁阿闍梨の弟子になっているみたいですね。
元久三年→建永元年(1206年)
御家人の土地の関する法律
正月7日、頼朝の時代に与えられた土地は大罪を犯さない限り没収されることはないという命令が出されました。
実朝の昇叙
2月22日、実朝は従四位下に昇叙しました。
改元
4月27日、改元が布告され、建永となりました。
伊勢神宮領横領事件
五月六日、伊勢神宮祭主である大中臣能隆が、鎌倉に使者をよこして訴え出ました。そこにはこうありました。
「加藤太左衛門尉(加藤光員)は、私らに仕える家令(執事)でした。しかし、いつの頃からか関東(鎌倉)に仕えるようになったので、その権威をかさにきて、私たちの命令を聞かなくなりました。
伊勢神宮の神領についても、好き勝手に数か所を自分のものとして管理してしまいました。それどころか、去年の11月には、鎌倉に内緒で検非違使の任命を受けています」
実朝は「早くその職をやめさせなさい。」と命令したようですが、北条義時(演:小栗旬)、大江広元(演:栗原英雄)、三善善信(演:小林 隆)らが検討した結果、
・光員が伊勢神宮の神領を横領していることは禁止させる
・検非違使職については、光員が御所西の護衛兵(西面武士)となったことと関係があるのではないか。となると、これは上皇の指示の可能性がある、鎌倉で口を出すべきではない
という判断になったようです。
鎌倉がいかに上皇に気を遣っていたかがわかる判断です。
五月二十四日、広元が加藤光員に大中臣の訴えを尋ねたところ
「伊勢国道前郡(道前三郡/三重県三重郡、菰野町、員弁郡)の政所職は、伊勢神宮祭主に命じられたことで、その指図に従っております。神領を管理しているのは、元々自分が開発領主であり、神様に寄付しています。これを横取りというのはちょっと違うのでは」
と主張してきたので、広元は
「あ、これは祭主のいいかがりだ」
と考え、これ以上は介入すべきではない(面倒なことになる)と考えたようです。
善哉、実朝の猶子となる
10月20日、善哉は尼御台所政子の命令で、実朝の猶子(相続権のない養子)なりました。
ドラマの中でつつじ(演:北 香那)が善哉に「お父上と呼びなさい」と言っていたのは、こういう背景があった上でのことだと思われます。
義時の子・朝時、元服
10月24日 義時の次男が、御所で元服をして、次郎朝時(演:西本たける)となりました。おそらく実朝の「朝」を貰っていると思うので、烏帽子親は実朝でしょう。
ほぼ忘れかけていますが、長男の泰時(演:坂口健太郎)はもともと頼朝の「頼」を貰って「頼時」と名乗っていましたね。
建永二年→承元元年(1207年)
実朝の昇叙
正月5日、実朝は従四位上に昇叙しました。
トキューサ、武蔵守に
2月14日、北条時房(演:瀬戸康史)は武蔵守に補任されました。
高野山乱暴狼藉事件
6月22日、将軍御台所の父・坊門信清の使いが鎌倉に到着しました。使いは仁和寺の御室(道法法親王?/故・後白河院の子)の手紙を取り次いでいました。
その手紙によれば紀州の民衆達が高野山へ入り込んで、狩りをして寺の領地を横取りしており、しかも和泉国・紀伊国守護の代官がその横領の手助けに出張ってきているとのこと。鎌倉からの命令としてこの乱暴な行為を止めてくれと、御室が高野山金剛峯寺所司の手紙を添えて、坊門信清に頼んできたとのこと。
6月24日、御所でこの件の検討が行われました。
そもそも和泉国・紀伊国の守護職は、三浦十郎左衛門尉(三浦義連/トキューサの烏帽子親)が務めていました。しかし三浦義連の死後、幕府は未だに交代の者を決めていませんでした。
ただ、この両国は、後鳥羽院の熊野詣のための宿場の雑事以外の仕事はないのから、今更守護を置く必要がない。よって「これは院庁に任せるのが良い」と鎌倉殿が決められました。
従って、三浦義連の代官は引き揚げさせるように、大江広元が京都の掃部入道寂忍(中原親能)に命令を出しました。
7月23日、掃部入道寂忍(中原親能)の使いが京都から鎌倉に到着しました。三浦義連の代官については、先日の命令通り、今月9日に京都に来るように命じました。13日にそのことを坊門信清にも伝達済みと報告しました。
三浦義連の没年はわかっていませんが、1203年の説があります。
その説の通りであれば、幕府は4年間も主人なき武士集団を野放しにしていたことになります。それはそれで恐ろしい話です。
改元
10月25日、建永から承元に改元されました。
ということで、ここからドラマ本編の話になります。
実朝の疱瘡とその余波
実朝が疱瘡にかかったのは1208年(承元二年)2月3日で、同月29日に回復の兆しが見られています。ただし3月3日には発熱が見られているので、体調が悪い日々がしばらく続いていたようです。完全に回復したのは同年4月24日ごろだと思われます。
ただ、これが契機なのかどうかはわかりませんが、実朝の身に何かあった場合、後継をどうするのかの話し合いがこの頃からなされたと考えられます。
というのも、同年十月十日、政子とトキューサが熊野詣に出かけ、そのまま京都に入っているからです。
承元二年十月十日、尼御台政子は、宿願を果たすために、今朝の卯の刻に熊野詣でに出かけました。武蔵守(北条時房)が供をしました。
同月二十七日、京都に入られました。
この宿願が何を意味するのかはわかりませんが、おそらく実朝の世継ぎを望むものだったのではないかと私は考えています。
また、同年12月18日、中原親能(法名:掃部入道寂蓮)が京都で亡くなりました。66歳だったようです。
同じく12月20日、実朝は正四位下に昇叙されました。毎年官位が上がっていっています。
備後国大田庄年具未収の問題
ドラマでは高野山から大田庄の年具未収の問題が描かれました。
康信「高野山は大田庄からの年貢の取り立てを地頭が妨げていると長年に渡って訴えてきております」
義時「大田庄の年貢は、亡き後白河法皇様の供養を行うためのもの、それを邪魔だてするのはいかがなものか……」
実朝「あそこの地頭はそなた(康信)であったな」
康信「……さようにございます」
実朝「大田庄の代官を庇いたい気持ちもわかるが……」
義時「道理は高野山にございます。ここは高野山の言い分を聞いてやりましょう……よろしいですか?」
実朝「……」
これは『吾妻鏡』に記載があります、が、ちょっとドラマとは違うようなので補足します。
承元三年三月一日、今日、高野山大塔の保守料として宛行われている備後国大田庄(広島県世羅郡世羅町?)の年貢が滞納されていると寺の関係者が訴えてきました。
よって、裁定をした所、高野山からの使いの僧と地頭である三善善信の代官とが口論になりました。
将軍実朝様の御前に近い場で口論したため、双方とも追い出されました。
この件についてはしばらく時間をおこうと、将軍実朝が仰られました。
まぁ、義時の独裁的なところを見せようという演出だとは思いますが、実際は実朝の裁決になっています。『吾妻鏡』にはこの件に関しては、義時の義の字すら見当たりません。
実朝の昇叙と将軍親政開始
承元三年(1208年)四月二十二日、実朝は従三位に昇叙しました。従三位以上の位階を持つ者が上級貴族の仲間入りであり、自らの家政機関である政所(まんどころ)の開設が可能になります。
この前後より、実朝は自分の判断で裁定を行なっていることが見られることから将軍親政が始まっていたのではないかという説もあります(五味文彦・東京大学名誉教授)。
ちなみに実朝は翌月5月26日には右近衛中将に任官しております。
三善康信の苦悩
ドラマの中では三善康信が実朝に和歌の指導を行なっているところに、源仲章が割って入り「二度と鎌倉殿に和歌の指導をするな」と釘を刺され、しょぼくれるシーンがあります。
実はドラマでは全く触れられていませんが、この前年の承元二年(1207年)正月16日、康信は名越の自宅を焼失させ、将軍家の手紙や書物、裁判記録などを収めた文庫も失ってしまいました。幕府にとってこれはかなりの痛手だったと思います。
その上、ドラマ劇中のごとく仲章に全否定されては、凹んでもおかしくはありません。
和田義盛の無心
ドラマでは和田義盛が突然御所に来て、実朝に上総介の無心をするところが描かれています。
実朝「上総介……」
義盛「周りがうるさいんですよ、上総介になってくれって、いよいよ和田が御家人の柱になるときだって」
実朝「……わかった。なんとかしよう」
これを受けた実朝は政子に許可を得ますが…….
政子「でもね、政(まつりごと)というものは、身内だからとか、仲が良いとか、そんなこととは無縁なもっとおごそかなものだと思うのです」
と、やんわり拒絶されてしまいました。
このことは『吾妻鏡』にも記載がありますが、政子の断り方は全く違います。
「故頼朝様の時代に、侍の国司への任命はしてはいけないとお決めになられておりました。それなので、このような事を聞いてはいけません。しかし、貴方が新たな礼を作ると云うのなら、女の私が口を出す事ではないので勝手になさいませ」
一見、論理的にようにも見えますが、この時点で、政子の父・時政は遠江守。弟である義時は相模守。トキューサ(時房)は武蔵守にそれぞれ補任されているので、この政子の意見は全く筋が通っていません。
それをドラマの中で八田知家(演:市原隼人)が直球で政子にぶつけています。
知家「北条の方々のことですが……ハッキリ申し上げて、御家人たちは皆、苦々しく思っています。小四郎殿(義時)は相模守、五郎殿(トキューサ)は武蔵守、北条でなければ……国司にはなれねぇのか……」
ただ、明確な時期は不明ですが、同じ承元三年には大江広元の嫡男・源親広が時政の後の遠江守に任じられているのと、この時期八田知家も筑後守に任じられていると思うので、北条でないと国司になれないというのはちょっと違うかもしれません。
和田義盛が上総介を望むのは、義盛が上総国内に伊北荘(千葉県夷隅郡大喜多町)をはじめとする多くの領地を持っていたことと無関係ではないでしょう。
ちなみに上総国には親王任国と言われ、皇族しか国司になれない国でした。従って上総守という言葉は存在しない(親王が国司になるので上総大守となる)ので、上総介の官職が実質国司と同じ意味を持っていました。
なおかつ、野口実・京都女子大学名誉教授はこのように述べられています。
平広常が上総介広常と呼ばれたのは、上総を支配領域とし権介職を帯することによる。その上総権介は知行国ないし受領に任命されたもので私称に近い。和田義盛の望んだ上総介は、除目による正式なもの。彼は左衛門尉の官歴があり、実朝に挙申を申し出る資格を持つ存在。広常の上総権介とは次元が異なる。
— Minoru.Noguchi (@rokuhara12212) October 5, 2022
上総広常の上総介は上総権介であり私称に近い。義盛が望んだものは正式の上総介。しかも野口先生のツイートが正しいとするならば、国司の官職を求めるにはそれ相応の官職を減る必要があるということになります。
和田義盛は「左衛門尉」の任官歴を持っているため、実朝に挙申を申し出る資格を有していると……このあたりは本当にややこしいですね。
ちなみに義盛が実朝に内々に依頼したのは承元三年(1208年)5月12日。その10日後の5月23日に今度は大江広元に嘆願書を出しています。よっぽど諦めきれなかったんでしょうねぇ。
義時の守護二年交代政策
義時が鎌倉の政治のやり方を改めるとして「守護を二年ごとに改めて御家人の力を削ぐ」と言っていますが、これは『吾妻鏡』の以下の記載が元になっていると思われます。
承元三年十一月二十日、諸国の守護が警戒を怠け、盗人の群れが集団蜂起して年貢を横取りするので、荘園や国衙領の役人が年貢を徴収できないと訴えてきました。よって御所で会議をしました。
(中略)
鎌倉殿は言いました。
「守護職が同じ家代々の役職となっており、先祖の手柄に自惚れて怠けているのではないのか。人数と年限を決めて交代で職務に当たらせたらどうか。あるいは、国ごとに細かい事情を調べさせて、出来ていない人を変えてみたらどうか」
その話は出ているのですが、未だに決定はされていません。
「この機会に、その守護を命じられたときの元の命令書を、鎌倉に近い関東近国の守護職に提出させるように」
と命令をされました。これは、先祖伝来の職(本領安堵)と、何か手柄を立てた恩賞として任命されたものとを、分けて考えるべきだとの考えからです。
なので、この守護年限交代制は実朝が言い出したことになっています。
ちなみに関東近国の命令書を提出させたところ、それぞれ仔細があって収拾がつかなくなったせいか、最終的に「頼朝様が与えた土地は罪なくして没収してはならない」という大前提が生きているため、この話は立ち消えになったみたいです。
平 盛綱の誕生と義時のマウンテイング
今回一番驚いたのは鶴丸(演:きづき)が平 盛綱の前身であったことですね。
盛綱の出自に関しては謎が多いのですが、北条家の家司であり、後に侍所の所司も務めたことだけは記録に残っています。
ドラマの中の義時は、弓矢大会に鶴丸こと盛綱を紛れ込ませて、勝ったら盛綱を御家人にしてもらおうと企みます。
そして見事、盛綱は的を射て、優勝しました。
義時は盛綱を御家人にするため、実朝に交渉しますが、実朝はこれを拒絶します。
実朝「一介の郎党を御家人に取り立てるなど……ありえぬ……和田義盛の上総介推挙を止めたのはお前ではないか。守護の任期を決めたのも、御家人たちに勝手をさせぬためではなかったのか?……お前らしくもない」
この時代の武士の定義として、鎌倉殿と主従関係を結ぶ武士を「御家人」と呼び、御家人の下にいる家人は「郎党」という扱いでした。
その郎党を御家人してくれと義時は願い出ているのです。到底、実朝が受け入れられるものではありませんでした。他の御家人との間に差をつけるわけにはいかなかったのです。
この実朝の反論に、義時は抗弁する言葉を持ち合わせていませんでした。そこで、「私はもう不要ですね」と自ら突き放すような言葉を言います。
これは実朝の言っていることが道理であり、弁舌で実朝を言いまかすことができないから実朝を脅すことでマウンティングする態度に出たわけです。
そして実朝に「私が間違っていた」と言わせた上、「私のやることに口を挟まれぬな」と釘を刺しました。
ここまでくると黒義時どころか極悪人ですね(笑)
ちなみに『吾妻鏡』には承元三年(1209)十一月十四日、義時が自分の郎党を御家人に準ずる地位にしてもらえないかと実朝に頼んだとあります。
その時の実朝の拒絶セリフは以下の通りでした。
もし、それ(郎党の御家人化)を許してしまえば、そのような連中の子孫の時代になった時、最初の経緯を忘れて、直参御家人の一人として政治への参加しようとしかねない。そういう後の問題を招く原因となることは絶対に将来においても許すべきではない
残念ながら実朝の懸念は当たります。後に北条氏内部に御内人制度が確立し、その中の筆頭となる内管領が幕府を内側から壊していくのですから。
順徳天皇 践祚
今回のドラマで描かれた四年間の中で、朝廷にも動きがありました。
1211年(承元四年)11月25日 土御門天皇が皇太弟・守成親王に譲位されました。順徳天皇の践祚です。
これは後鳥羽上皇の強い意向で譲位が実行されたため、土御門上皇は院政を施くことができませんでした。これ以後、土御門上皇はお飾りと化していきます。
実朝の昇叙と任官
1211年(承元五年)1月5日。実朝は正三位に昇叙され、同月18日に美作権守に任じられました。
同年3月19日、朝廷は建暦と改元しました。
善哉、出家する。
1211年(建暦元年)9月15日、善哉が、鶴岡八幡宮別当・定暁の手で髪を降ろし出家をしました。法名は公暁(演:寛一郎)となりました。
同月22日、善哉改め公暁は、授戒のために、定暁に連れられて京都へ上ります。この時、実朝は身辺警護役として侍5人を与えています。『吾妻鏡』はこれを「猶子であるがため(相続権のない養子であるため)」と記しています。
義時の独裁は虚構
ドラマの前回で義時が時政を追い出した1205年(元久二年)閏7月から、今回描かれた1211年(建暦元年)の6年間のドラマの中で義時がしたことは、ほぼ本人がやったことではないです。
備後国大田庄の年貢未収問題を様子見と裁決したのも、守護の年限交代のアイデアを出したのも実朝が言い出したことです。
そして和田義盛の上総介補任を拒否したのは政子です。
ドラマ本編で義時がやったことといえば、盛綱を御家人にしようと動いたことぐらいでしょうか。
義時に関する『吾妻鏡』の記述も、将軍の代わりに八幡宮や三島大社に代参するとか、喧嘩の仲裁に「お前らいい加減にしろ」という注意を与えたりすることがほとんどで、評議とかでは名前が出てくることがまだまだ少ないと思います。
それではドラマが成り立たないので、こうやっていると思いますが、黒義時いい加減にしろよと思ってもいます。
この頃の御家人の序列
『吾妻鏡』の1211年(承元五年)の正月は久々に垸飯(将軍にご馳走すること)についての記載がありました。この当時の御家人の序列を列記してみましょう。
正月1日:北条義時(献上品持参:北条時房、源<大江>親広、結城朝光)
正月2日:大江広元(献上品持参:源<大江>親広)
正月3日:小山朝政(献上品持参:結城朝光)
第1位と第2位は幕閣ですので、論外ですが、第3位に小山朝政がいます。つまり、北条以外の御家人の序列トップは和田でも三浦でもない小山朝政ということですね。
小山朝政は下野小山氏の当主であり、下野国守護職に補されています。
このドラマに出てきた長沼宗政(演:清水 伸)、結城朝光(演:高橋 侃)の兄にあたります。
なのに本人は一度もドラマに出てきておりません。
さて、ドラマは鎌倉史上最大の御家人の反乱・和田合戦に向けて、突っ走っていきます。