第2回 多国籍組織の共通言語(前編)
多くの外国籍社員が所属しているメルカリ。エンジニア組織の外国籍メンバーの比率は50%を超え、東京オフィス全体の社員の国籍数も約50カ国にのぼるといいます。そんな多様な言語的、文化的背景を持つ組織のコミュニケーションは、いったいどのように行われているのでしょうか。
第2回は、英語教育の専門家である藤原康弘先生をお招きし、言語的背景が多様な組織のコミュニケーションや言語教育について語り合います。
◆社内公用語は最適解か
親松:メルカリではいわゆる社内公用語というものは定めていません。グローバル化を目指す企業では英語を公用語とするところもありますが、社内公用語について藤原先生はどうお考えでしょうか。
藤原:メルカリが社内公用語を決めなかったことは、僕はとても正しいことだと思います。正しいというか、もし社内公用語を英語にせよ、日本語にせよ、いずれかに決めた場合、メルカリのミッションはそもそも達成できないでしょう。「あらゆる価値を循環させ、あらゆる人の可能性を広げる」がミッションですよね?社内公用語を定めるということは、明らかに一部の人たちの可能性を狭めてしまうことになります。それはミッションと矛盾してしまいますよね。
親松:確かにそうですね。となると、それぞれの会社の企業理念などとしっかり文脈付けをして言語の方針を定める。一律にグローバル化するためには英語をやらなきゃダメだという流れじゃなく、理念というかポリシーとしてそれぞれの会社が決めればいいのかもしれないですね。
藤原:仮に社内公用語を英語にした場合、やはりコロニアル(植民地的)な印象を受けますね。そういうつもりがないとしても、歴史的には英語が支配的な言語として広がってきた背景があるので、そう連想せざるを得ない。一部の人たちにとっては言いたいことが言えないという状況を作るだけじゃなく、英語でのコミュニケーションに優位性を与えることになるので、英語話者の発話量が増え、他の言語話者の発言が減ることにもつながりかねない。公用語を決めるというのは、特定の言語話者に特権的な地位を与え、他の言語話者に対する不平等を生むような相当なパワーがある。
それよりもコミュニケーションの可能性が広がるようなやり方があると思うんです。自分は日本語で、相手は英語で話すという状況や、その逆があってもいい。まったく同じ内容、同じ「意味」だとしても、日本語で言うか英語で言うかでその場の「意義」は変わるはずなんです。だから、いろんな言語でコミュニケーションができるチャンネルは残しておいたほうがいいと僕は思います。
親松:メルカリでは公用語とはしていないけれど、実際業務で機能させているのは英語と日本語という状態です。会社の採用基準では職種によって求められるレベルは異なりますが、どの職種でも日英どちらかがCEFR(※)B2以上を求められているので、自然とどちらかの言語はできる人が集まるようになっている。英語話者はいわゆるネイティブ・スピーカーのほうが少なくて、ほとんどの人にとって英語は第二言語です。だから英語がスタンダードでもないし、英語使用者もとても多様です。その人が最も快適に意思表示ができる言語の保証っていうのは、すべての人に対してはできてない状態で、そこは課題です。
◆ネイティブ信仰の弊害
親松:もう一つ悩みがあって、それは社内のスピーキングテストのスコアリングです。日本語のスコアリングは私がやっていて、中国語母語の人と英語母語の人とでは産出される日本語にも違いがあるので、音韻の考え方とか言葉の選び方、その人が文脈上、何を言っているのかなどを自社の作ったスコアリングルールに沿って評価をしています。
英語の場合、外部の英語ベンダーを使うと基本的にすべて機械判定になる。その機械は何を学習しているかというと圧倒的にアメリカ英語で、アメリカ英語と比べてこの発音は機械が聞き取れるかどうかというところが見られるんですね。これは思想的にメルカリが目指すものとはずれてしまうのですが、どのテストも基本的にそうなっている。
藤原:最近のAIはいろんな人の英語を理解しようという流れはありますけど、基本的にはそうですね。日本の高校教科書のモデル音声も8~9割はアメリカ英語という状態で、アメリカ英語がグローバルスタンダードだという誤解を生む危険性があると思っています。大学入試では、センター試験ではアメリカ英語しか扱いませんでしたが、2020年から始まった大学入学共通テストではイギリス英語と、日本語を母語とする人の英語を必ず含めることになりました。これは大きな変化です。私は早くインドやフィリピン、マレーシアの人の英語も含めていくべきだと思いますし、日本の背景を考えると特に香港など中国系の人の英語は外せないと思います。
親松:メルカリの従業員にもインド出身者が多く、私も初めて会う人だと相手の英語がわからないことが多いです。私の英語も日本語の影響を受けているので相手はわからない。それでも辛抱強く時間を過ごしていると、だんだんお互いにわかるようになるし、相手との関係性の中で言語使用もどんどん変容していきますね。
藤原:インド英語などは学校の英語教育では取り扱われていないので、社会に出ていきなりインドの人や韓国の人と英語でやり取りする、ということに遭遇しますよね。
親松:よく「ネイティブ・スピーカーのように話せる」とか「ネイティブと比べても劣らない」というようなキャッチコピーを目にしますが、ネイティブのようになることを目指すことが答えじゃない。非母語話者を萎縮させて、ずっとコンプレックスを持たせてしまうという弊害もあると思います。英語教育ベンダーと話していても日本発のベンダーは「日本語母語話者の特性を持った英語でいい」と胸を張って言ってくれません。海外のベンダーはCEFRを理解した教育方針を持っているなと感じます。
藤原:確かに言語習得の研究はずっとネイティブとの比較で来ました。2000年代の初頭くらいから、もっと言語を使っている人たちを社会的な状況で見なくてはいけないのではないか、個人の能力で考えるのではなく、社会の中でその人たちがどうやって機能しているかを見るべきじゃないか、というような反省が広がっていきます。
そして2010年代に入ると、ネイティブ・スピーカーという一言語のみを話す人をモデルにした言語教育の根本が間違っているのではないか、という話が始まるんです。
例えば我々が英語を習得し、英語を使って社会に貢献していく場合は、日本語を第一言語として英語を使うという話者になるわけだから、そもそもモノリンガルではない。第二言語習得はマルチリンガルを育てるのが根本のスタンスなのに、何故かモノリンガルのネイティブ・スピーカーと比べ続けていた。二言語を使用している人たちをもっと評価すべきだという意見が多数派になりつつあると思います。
テストの話で言うと、今まで専ら評価してきたのは第二言語のみですよね。しかし、例えば私が英語のテストを受けるときは、英語と日本語を使う人として評価されるべきで、二言語使用の、私の日本語を含めた言語能力を見るべきではないかという議論が国際的に行われています。(後編へ続く)
※ CEFR:Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessmentの略。欧州評議会が発表したもので、外国語の運用能力を示す国際的な指標としてヨーロッパを中心に世界の多くの言語で利用されている。言語を使って何ができるかという基準でA1、A2、B1、B2、C1、C2の6つのレベルに分けられており、異なる言語でも共通の基準で評価できるという特徴がある。
【関連書籍】
『これからの英語教育の話をしよう』
藤原康弘・仲潔・寺沢拓敬 編 ひつじ書房
今回の対談で出てきた「ネイティブ信仰」の問題点や、国際共通語としての英語(English as a lingua franca, ELF)の視点についてさらに知りたい方へ。英語教育の視点から日本語教育を捉えなおし、当然視されている言語教育観を問い直すきっかけになる1冊。