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第3回 日本人の日本語の問題点(前編)
多くの外国籍社員が所属するメルカリのLanguage Education Teamで働く親松雅代氏が、「企業の言語教育」というテーマで様々な専門家と対談するシリーズ。
企業での言語教育は、ただレッスンを提供すればいいというわけにはいきません。
カリキュラムの開発から社内コミュニケーション施策、D&Iまで、言語教育が関係する領域は広く、その役割は多岐にわたります。
この対談では、親松さんのメルカリでの試行錯誤の取り組みを振り返り、専門家の知見を交えながら企業の言語教育について様々な観点から考えていきます。
プロフィール:親松雅代
株式会社メルカリLanguage Education Team所属。外資系国際物流会社を経て、2013年に日本語教育の道へ。2018年メルカリ入社、日本語プログラムとスピーキングテストの開発・実践に従事。現在は従業員の英語教育、日本語教育、やさしいコミュニケーショントレーニングのプログラムマネジメントに携わる。
組織において言語による障壁を取り除くには、日本語や英語のプログラムを提供するだけではなく、各言語の母語話者や上級話者への教育が同時に必要だと訴える親松さん。
そのための施策として位置づけている「やさしいコミュニケーション」トレーニングは、母語話者にどのような影響をもたらすのでしょうか。
第3回は「やさしい日本語」の研究を専門としている庵功雄先生をお招きし、共通語として日本語を機能させていくために、母語話者に必要となる視点について考えます。
対談相手:庵 功雄先生
一橋大学国際教育交流センター教授。日本語教育学会副会長。専門は、日本語教育、日本語学。「やさしい日本語」研究グループ代表。主な著書に『「日本人の日本語」を考える-プレイン・ランゲージをめぐって』『「やさしい日本語」表現事典』(ともに丸善出版)、『やさしい日本語-多文化共生社会へ』(岩波新書)など。
◆母語話者教育の必要性
親松:庵先生のお名前を初めて知ったのが、日本語教師の養成講座を受けている時でした。その時に「やさしい日本語」(※)という概念に触れてすごく衝撃を受けました。「なんでこんな大事なことを私は知らなかったんだろう」と。それから先生の著書を読んだり、講座に足を運んだりしながら、いつか「やさしい日本語」に関わりたいと思っていました。
メルカリの入社面接のときには、「やさしい日本語、この会社でやりますよ」と宣言していましたね。会社のミッション達成という同じ目的に向かって仕事をしていくには、多様なメンバーの違いを活かしながら質の高いコミュニケーションをし、より良い意思決定をしていく必要があります。そのためには、英語教育、日本語教育だけじゃなく、「やさしい日本語」や「やさしい英語」を取り入れた母語話者教育が必要で、その3つを柱にすると決めていたので、いつか庵先生とお会いすることになりそうだなと思っていました。その後、先生にはオンラインでの社内セミナーに登壇していただいたこともありましたが、メルカリの取り組みをどのようにご覧になっていますか?
庵:私も留学生の教育にずっと携わっているので、留学生が働くということを考えると、おそらくメルカリは理想的な環境だろうと思います。日本の企業が、本当に外国人材を採用するということを前提に考えるのであれば、メルカリみたいなやり方を少なくともデフォルトにしないと多分うまくいかないというか、そういう話になるはずだと思いますね。
親松:私がメルカリに入社してからずっと一貫して伝えているのが、日英問わず、母語話者の教育が絶対必要だということ。社内の英語話者に関しては非母語話者の方が圧倒的に多いので、そもそも英語話者同士でもわからないことがたくさん出ます。上級話者や母語話者に、その言語が得意ではない人目線の気づきを持ってもらうための教育はスタンダードにしたいなと思っていました。
庵:組織で英語と日本語の両方を機能させていくということだったら、母語話者教育はセットにはなるだろうと思いますね。両方やるのに、つなぐ物を入れないと多分できない。でも両方やるという感覚がそもそも大部分の企業にはない。
親松: そうですね。いろんな企業から弊社の言語教育をベンチマークにしていると言われますが、どこもやはり英語教育が重視されている傾向があって、日本語教育が話題になることは少ないです。でもどの会社も目指す姿が組織の英語化だとして、その道のりってすごく長い距離があって、そこに至るまでの段階はあまり考慮されていないと感じます。レベルで言ったらA2とかB1あたりの人たちへのアプローチがないまま取り残されているのはよく起きている。途中段階の学習者とどうやりとりするのかは本来セットで考えなきゃいけない。それに対しての1つの解がメルカリの場合は母語話者教育で、「やさしいコミュニケーション」トレーニングを通じて行っていることです。
◆日本語の多様性と変種への非寛容
親松:近年、あらゆる就労の現場で日本語が母語ではない人が増えていますし、今後も増え続けていくことが予想されています。多様な人種や国籍の人が日本で生活をするとなれば、日本語も多様化していくことが想像されますが、私たちは日本語の多様性に気付いてないところがあって、日本人が民族的に大切にしてきた日本語だけが日本語であるような認識が根強いと感じます。なので、それとは異なるイントネーションや発音を聞いた時に、それを許容できないところがある。
発音が上手くなかったり、言葉のニュアンスが日本人っぽくなかったりすると、すごく違和感を覚える。そしてその違和感がそのまま「日本語をもっと勉強してもらわないと」という課題設定になってしまいがちです。
庵:そもそも1つの日本語というものが存在するのかというね。概念上はあるけれども、実質的にあるのか。極論すれば共通語というのは、ある種の幻想かもしれないわけです。
これは日本の方言研究では結構知られていることですが、「気づかれない方言」というのがある。例えば食事をする約束をしていて、自分は遅れそうなので「先にどうぞ」と言うときに大阪方言話者が普通に言うのはおそらく「先に食べかけてください」という言い方なんですね。世代差はあるかもしれませんが、少なくとも大阪人である私の感覚では、大阪弁で一番自然なのはこの言い方です。一方、東京方言、いわゆる共通語では「食べ始めてください」が一般的で、「食べかけてください」は変だという話になる。でもその違いは言われない限りは気づけない。そういうのがいっぱいあるわけです。ということは、共通語話者と言えるためには、本人が東京近辺で生まれ育って、かつ両親もそこで、両親の両親もそこでないと方言の影響がどこかに入ってくる可能性がある。そういう意味の純正の共通語話者はほとんどいないはず。だからみな何がしかの方言を背負って、それをいわば直訳しながら共通語だと思って、それが日本語だと思って喋っている。つまり共通語としての日本語は、様々な方言の影響を受けた共通語の集合体であるというのが現実なのではないか。
そして方言の中にも序列がある。大阪弁はお笑い文化の普及でかなり受け入れられていますが、同じようにテレビで東北弁が話せるかというとまた違う。外国人の日本語以前に、日本人の非共通語話者の日本語に対しても非寛容だという現実があります。日本語という確固たるものがあって、それと日本語非母語話者の日本語を比べているだけはなくて、同じ視点で非共通語話者の日本語を見ている。だから共通語社会の中で方言は使えない。外国人の日本語という意味ではなくて、日本語母語話者とされている人の日本語だって、共通語以外の変種を実質的には排除しているんです。
親松:そのような言語の「異」の部分に対し、各自が日頃からメタ認知をしやすくするための知識や行動を学ぶのが、メルカリの「やさしい日本語」や「やさしい英語」への取り組みでやっていることです。トレーニングを終えると多くの人が自身が発する日本語や英語に対して、メタ認知的視点を持てるようになります。
メタ認知ができるようになると、「異」に接したときにも、「自分はどこに違和感があると思ったのか」「相手の発話にはどんな言語的・文化的背景があるのだろうか」とか、そもそも「自分の話に伝わりにくい部分はなかっただろうか」や「工夫できることはあるだろうか」、さらには「自分は相手の日本語能力への期待値をどこに置いているのだろうか。それが達成できていないとどんな問題が発生するのだろうか。」といった視点が持てるようになり、相手の言語能力をジャッジする姿勢から、自分の発話に注意を払う姿勢が生まれ、行動は大きく変容していくと期待しています。
(後編はこちら)
※ やさしい日本語:日本語を母語としない人など、日本語でのコミュニケーションに困難を抱える人のために、使う語彙や文法、情報提示の仕方などをわかりやすく調整した日本語。災害時の情報発信や医療現場、行政の情報伝達などさまざまな場面で活用されている。
【関連書籍】
『「日本人の日本語」を考えるプレイン・ランゲージをめぐって』
庵 功雄 編・著 丸善出版
非母語話者と日本語でやり取りすることが増えていくことが予測されるこれからの日本社会で、日本語はどう変容し、機能していくのか。日本語母語話者にとっての日本語の課題と変化を解説し、誰もが平等に理解し、行動できる社会を志向する一冊。