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光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)③

学習院大学山岳部 昭和36年卒 熊野將

我らがハイマート(その1)


 十四年十一月から二ヶ月間の記録は見当たらぬが、おそらく備品の調達、整備などに費やされたものと思われる。 明けて一五年一月二日、山岳部長西崎一郎先生以下、OB木戸孝澄、五島昇両氏をはじめ現役が一週間滞在して完成を祝った。

 「待望の小舎にきました。奥日光の事は、GACに聴けの日来たらしめん」西崎部長。 「屋上青山有、屋下清水在」山梨院長。我等の山小舎より登山のモラールを出発せしめん」原口兼義氏。

 新しい小舎を我ら物にした感激と日光の山に対する希望で意気軒高なところを見せている。 この昭和十五年は、若い人はピンと来ないだろうが、紀元二千六百年の年。 二月十日の紀元節に土地の地名に因み、「光徳小舎」と命名された。

 紆余曲折の末、この地に決まったことは、この頃すでに卒業されており、当初よりこの小舎に携われた原口義兼氏のお父上が帝室林野局に勤めておられた関係で割合とことがスムーズに運んだものと思われる。 いつぞや山桜会の席上で、その当時宮内省が華厳ノ滝から上を学習院に下さるという話があったが、とても賄いきれないのでお断りしたと聞かされ、皆アア勿体ないと吐息を漏らしたことがあった。

 余談はともかく出来上がった小舎は当時建築界の泰斗、堀越三郎氏の設計、工事は日光中宮祠の赤坂組みによるもので、五十坪二階建てのがっちりした造りで、大きな薪ストーブが据え付けられ、二階には畳と障子が入った特別室があり、当時美術部々長であった岡常次先生の「戦場ヶ原風景」という絵も掛けられていて文字通りクラブハウスであった。

 この頃、すなわち昭和十五年~十六年前半までは世の中が戦争一色に向かって行く中、この光徳はまだ時局を感じさせず、山岳部にとどまらず、部員の周辺の人々―同級生、家族、知人、友人などもここを訪れているようである。 しかし、世の中が戦時体制となり住みにくくなった分だけ、この山の中も比例して環境が悪くなったようである。


(※)光徳小舎
山岳部では設立時から「舎」という文字を使っている。現在正式には「学習院光徳小屋」です。このエッセイでは、執筆者(故人)の考えを踏まえて敢えて「舎」で統一いたします。

「光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)②」から

「光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)④」へ

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