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光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)⑦

学習院大学山岳部 昭和36年卒 熊野將

二代目の再建と管理(その1)


 建築して十二年足らずで全焼してしまったことは、ここを山登の根拠地とし、また心の故郷とした人たちに与えたショックは大きかったことと思われる。 しかし、そのショックを乗り越えて直ちに光徳小舎再建委員会を設立、再建資金募金にあたった。 山桜会メンバーはもとより学校、桜友会、卒業生の関係する企業など多くの人たちの支援と協力を得て所要資金の募集に成功した。

 とはいえ戦後まだ六年目、物資も少なく到底旧に復するわけにもいかず初代より一回り小さい造りとなってしまった。 当時の小舎の東側と北側に初代の小舎の礎石があったことを覚えている人もいるかと思う。 一階部分は片流れ造りの屋根を持つ蚕棚付きのホールと小部屋、どちらも薪ストーブが置かれ、二階は一階の約半分の大部屋、そして前の川に向かってコロニアル風のテラスとなかなか雰囲気のある小舎だった。 設計は大林組関東支店の猪瀬善三氏、施工は宇都宮の斎藤工務店、斎藤功氏であった。

 そして、焼失後わずか七ヶ月後の昭和二十六年十一月二十三日に関係者が三十人余り集まり小舎開きを行った。 特筆すべきは日本郵船会社には格別の援助をいただき、この日も関係責任者杉村修次郎氏が挨拶に来られている。この時、裏に十坪ほどの管理人小屋も同時に造り奥山氏の住居とした。 どちらも電気を入れず、石油ランプであった。後に家族は学校などの関係で、宇都宮に住むようになったが昭和三十年代前半の頃は、奥さんと小学生に上がりたての子を頭に娘さん三人で、さぞかし不便なことであったと思われる。

(※)光徳小舎
山岳部では設立時から「舎」という文字を使っている。現在正式には「学習院光徳小屋」です。このエッセイでは、執筆者(故人)の考えを踏まえて敢えて「舎」で統一いたします。

「光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)⑥」から

「光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)⑧」へ

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