光徳小屋への想い
学習院中高等科山岳部 昭和20年卒 今園国建
私が光徳を知ったのは昭和13年の夏だった。 中学5年の夏、兄が夏休みに光徳小屋建設の奉仕に行き、その様子を聞いた。 父は家でうるさい奴がよくトイレもないところでモッコ担ぎなどをするな、と不思議がっていた。 翌14年夏、今度は中学2年の私が参加を申し出たら、低学年すぎるとの事だったが何とか参加を認めてくれた。 この時光徳に行っていたらまた別の思い出もできていたのかもしれない。 しかし出発の直前、家の事でいけなくなり、父と一緒に上野駅まで西崎一郎先生におわびに行った。 ともあれ、原口兼義先輩の父君等の御厚意と六所先輩以下の努力により、学習院光徳小屋が昭和15年に完成した。
実は私の光徳小屋の初印象は、立派な小屋だなというだけで殆ど忘却の彼岸に行ってしまった。 私にとっての小屋は昭和17年の夏である。
中学5年、剣道部だった私は宿敵、附属戦に大勝した。最大の目標をいとも簡単に成し遂げた後に来たものは耐え難い虚無感だった。
その夏私は一人で渋から志賀高原を超えて草津へ、戸倉から富士見峠・尾瀬ヶ原・三条の滝・燧ヶ岳、長蔵小屋へ(この間当時はすべて徒歩)。 長蔵小屋で寅次郎新道が出来たと聞かされて、今度は奥鬼怒・金精・湯元を歩いて光徳小屋にたどり着いた。 東京を出てから八日目の夕方だった。
既に戦争が始まっていた。 緒戦の勝利にわいていた時代とは云え、バスは木炭バス、旅する人も少なくなっていた。 16歳の一人旅は苦しかった。 牧場に着いたとき、そして光徳小屋の灯を見た時、涙が出る思いだった。
たまたま小屋には舟橋明賢、三井源蔵両氏を始め山岳部の人々がいた。 迷い込んだ私を不思議そうに迎えてくれたのが、私と山岳部の出会いであった。 毎日10時間近くの一人旅と、みんなで大ストーブを囲んでの談話とぬくもり、一人旅のワンダラーも光徳のとりこになってしまったのだ。
昭和19年から20年にかけて何度光徳小屋に行ったろうか。 先輩が同級生が次々に軍隊に行き、次は自分の番、非情の世界で光徳小屋だけは安らぎがあった。
戦争が終わり全てが廃墟となった東京、価値観が180度変わった日本のなかで、光徳小屋だけは少しも変わらないたたずまいを見せていた。 20年の9月、色々な人が勝手に、バラバラに小屋を訪ねている。そこに変わらない日本があった。
人さまざま、私は私なりに光徳小屋を思う。 それで良いのではないか。 そして今後も多くの人々が自分の光徳小屋を見つけて欲しい。 光徳小屋は来る人に何らかのものを与えてくるのではないかしら。 そのような光徳小屋であり続けて欲しいと願っている。
山桜通信4号(1995年4月)
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