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光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)⑥

学習院大学山岳部 昭和36年卒 熊野將

終戦そして体制の大変革


 八月十五日日光・金谷ホテルで終戦の詔勅を聴かれた西崎部長は「停戦の残念なるは国民の等しく熱涙を呑むところなれど。 此処白樺原生林の損なわれざりしはせめてもの心慰とすべきか」と記されている。 この間、湯元南間ホテルに疎開された皇太子殿下(当時)も終戦直前の八月十日に小舎においでになられ、その後も何度かお立ち寄りになられている。

 かくて戦争は終わり、それぞれ動員先より帰ってくるとさっそく小舎に現れ周辺に足を延ばしているが、なかには奥白根に行き、十時間を費やし翌日「食糧もなく栄養失調になりそうなので急遽帰京」などと、今の人には想像もつかぬような記述も見られる。

 しかし、昭和二十三年ころになると世の中も落ち着いてきたのか部員、OBはもとより部外者も頻繁と小屋を訪れるようになってきた。

 宮内省所管の学習院としては占領軍の進駐と共にその存続が危ぶまれていたが、多くの人たちの努力が実り昭和二十二年四月一日、財団法人学習院として新たに発足した。 この戦後の混乱時、乏しい食糧を携えて山に登り、備品の不足、小さな盗難などに悩まされながらその維持に努力してきた。 しかし、世の移り変わりとともに段々に維持も困難になり、ついに二十五年夏、岡本部長のご努力により倉橋理事に現状を視察していただき、学校からも積極的に援助していただけるようになった。 そして十一月光徳小舎管理委員会を設置し学校と山岳部の共同管理とし、六月から小舎番であった松岡氏に代わって奥山文雄氏が管理人として二十五年十一月三日に着任した。

 奥山氏は戦争中、関東軍の戦車兵として活躍され、戦後引き上げてからは、東京都交通局に勤めておられたが、当時部員であった三浦暎一氏の紹介で来られた。

 このような新体制の下、新たに管理人を置き、多くの人たちに利用されてきたが、昭和二十六年四月二十三日、ストーブの煙突の接続部のずれから出火して全焼してしまった。 わずかに奥山氏の必死の努力によって小舎日誌を持ち出すのがやっとだったと言う。

(※)光徳小舎
山岳部では設立時から「舎」という文字を使っている。現在正式には「学習院光徳小屋」です。このエッセイでは、執筆者(故人)の考えを踏まえて敢えて「舎」で統一いたします。

「光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)⑤」から

「光徳小舎三代の流れ(100年の自画像)(原文)⑦」へ

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