中間宿主

石つぶての王になると決めた。 地上の巨大な病斑になると決めた。 衛星写真で確認できるほど大きな病斑になると決めた。 美青年の踝に寄生したい。

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石つぶての王になると決めた。 地上の巨大な病斑になると決めた。 衛星写真で確認できるほど大きな病斑になると決めた。 美青年の踝に寄生したい。

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最近の記事

ただだるい、ひたすらだるい、書くのも読むのもだるい

    • 強迫神経症たけなわ

      集合住宅(ワンルーム)住まいの私はいま、隣の老人Aに苦しめられている。一方的に苦しめられているという被害者意識の膨張をどうすることも出来ない。壁を隔てた隣室にAが存在している気配を感じるだけでも不快になる。消えてほしいと願っている。どうしてこれほどの嫌悪に駆られなくてはいけないのだろう。 「他者ノイズ」へのこうした異常な囚われは、いまになって始まったことではない。もうすでにこの厄介な症状とは六年以上も付き合っている。だから病識は人並み以上にあるつもりだ(威張るな)。専門家の診

      • 集合住宅はもう嫌じゃ

        ひじょうにすこぶる辛いのに周りに誰もいないときは、書くに限ると思います。もしまいにち辛いならまいにち書くのがいいでしょう。愚痴でも自慢でもまいにち書く「ネタ」がある人は哀歓こもごも「豊か」な日々を送っていると自負してもいいのではないですか。 誰も読んでいなくてもいいのです。というかあまり多くの人が読んでいないから、勝手気ままに書けるのです。気難しい批評家や眼光鋭い皮肉屋の存在を意識していては、書けるものも書けない。 ウンチだって人の存在を近くに意識しすぎると出ないね。緊張は多

        • 俺以外の全ての人間の意見と俺の意見が「対立」したとき、ほとんどたいていの場合は俺が「正しい」。

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        • 天に唾
          2本
        • 這う這うの体
          5本
        • 愚の骨頂
          1本
        • 糠にペン
          1本
        • 落伍家
          1本

        記事

          働かざる者、食うべし、

          どうしようもなく、だるい。 もうnoteでは二年以上書いているのですね。飽きもせずに。ほぼ毎日書く御仁もおられるようだから、世の常として上には上がいる。いずれ宇宙が消滅すると思えば何をするのも空しくなる。こういう虚無感に足をすくわれない人は幸いなるかな。 壁から隣りのジジイのタバコのニオイがしますよ。換気扇をつけるとなお際立ちます。吸うならぜんぶの煙を吸ってくれよ。ついでに吸殻も食って病院運ばれてください。国葬してあげるから。 ああこんな呪いの言葉は吐くものじゃないよ。体内

          働かざる者、食うべし、

          結婚は判断力の欠如、子作りは倫理観の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如

          ああ今日も図書館に行きます。そのまえに何か書きたくなった。昨夜の酒が残っていていささか朦朧気味だけどキーボードを鳴らしたいよ。そういえばミソフォニアで苦しむ人は他人のタイピング音にも我慢しかねるようですね。私の場合、タイピング音はトリガーではないけど、その耐えがたさは「ある程度まで」分かる。 私のまいにち通っている図書館にもカチャカチャ威勢よく鳴らしているのがけっこういる。たぶん大学生で、レポートか何かを書いているんだろうと思う。しかし「夢中に勉強している人間」というのはどう

          結婚は判断力の欠如、子作りは倫理観の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如

          「隣人」を殺さないためのミソフォニア対策

          難易度★☆☆☆☆ できるだけ室内にはいないこと。公共図書館などで起きている時間の半分以上は過ごす。どしゃぶりでなければ二時間ほど散歩する。静止していると人はますます周囲ノイズに敏感になる。 難易度★☆☆☆☆ 在室中はホワイトノイズ(あらゆる周波数の音がミックスしたザーという音)をラジオで常に大きめに鳴らしておく。さらにもう一台のラジオではFM等の音楽番組などをかけておく。テレビがあればそれでもいい。ブルートゥーススピーカーでユーチューブの音楽をずっとかけておくのもいい。

          「隣人」を殺さないためのミソフォニア対策

          SNS写真のなかにはルッキズム的残酷さが凝縮されている

          「見た目の可愛さ」「美しさ」「清潔感」といった評価属性にあらかじめ多大の注意を払わざるを得ないといういわゆる「ルッキズム」の支配性をなによりも実感するのは、インスタグラムやティックトックを眺めているときで他ではない。およそそこでは、自分の姿を主としてアップしたがる人と、料理や動物や風景といったものしかほとんどアップしない人とに、二分されている。こうした「分断」ほどルッキズム世界の残酷さを語るものはない気がする。SNS投稿における「撮影主身体の不在」のなかにもっぱら私が感じ取っ

          SNS写真のなかにはルッキズム的残酷さが凝縮されている

          人はネックレスをかけるとセクシーな気分になる動物だ

          街を歩けば、女はもちろん、男もネックレスをよく首にかけている。老若男女もっとアクセサリーを付ければいいのにと私は思う。人間なんてものは素のままだと薄汚いのだから、ささやかな「お洒落」で我が身を演出してくれよ。「暑いから厚着、寒いから薄着」なんて機能重視で芸が無さすぎる。 若い学生が深めのVネックセーターなんか来てシルバーネックレスをしている姿はまことに色っぽい。見ていて心地がよくなる。露出された肌と人工物の対比こそ「色気」の秘密なのかしらね。「肉体の傷つきやすさ」が「金属」に

          人はネックレスをかけるとセクシーな気分になる動物だ

          「妖精系男子」

          近辺に大学が多いから、図書館行ってもドラッグストア行っても、あるいはただ単に散歩しているだけでも、学生を見かける。私は若い男を目に入れるのが好きだからありがたい話なんだけども、このごろ中性的でいかにも可愛らしい男子(妖精系男子)を見る頻度が高くなってきた。これは「気のせい」なのかしら。もっぱら私の目がそんな素敵男子ばかりを欲しているからそうなるのかな。 たしかにこれは入念な定点観測や統計上の結論ではなく、印象的経験論の域を出ないかも知れません。けれどもいちおう私はこれでも元大

          「妖精系男子」

          人はみなビョーキ

          「残便」が気になって今すぐ腸のなかのものを全部出したいという強迫観念に悩まされた時期があって、さいわいいまそれはないけど代わりに他人の出す音(とりわけ喉由来の音)が気になっていささかノイローゼ気味になることも少なくない。図書館で読んでいるときなどはさして気にならないのだけど自室にいるあいだは気が付けば音に対して身構えている。たぶんそれは私が自室に「唯一のやすらぎ空間であること」を求めているからであり、そこに「純度100パーセントの静寂」を求めているからだろう。「不合理」なのは

          人はみなビョーキ

          ポスト「ググってもカス」時代における図書館

          グーグルの「劣化」についてはこれまでさんざん語られて来た。グーグルについての苦言など、なにをいまさらという感じだろう。グーグルの検索エンジンのこの数年の収益化傾向はもう眼に余る。あるいはもともとその程度のものだったのかも知れない。そのへんのことは長年のネットウォッチャーじゃないから素人の分際をわきまえて突っ込んだ分析は控えよう。ネット情報はよく「玉石混淆」の喩えで表現されるけど、もちろん「玉」に対し「石」のほうが圧倒的に多い。「玉」と「石」の見分けのつかないほとんどの情報弱者

          ポスト「ググってもカス」時代における図書館

          多くの「良心的教育者」とってさえ体罰は「快楽」だったのかも知れない

          吉村萬一『哲学の蠅』(創元社)は「まだ終わらないでくれ」と読中最後まで思わせてくれためずらしい本だ。私小説でもあり教養小説でもあり読書録でもあり懺悔録でもあり創作論あるいは文学論でもあるというヌエ的書物で、ハートウォーミングや感動や謎解きや人生応援なんてものを「売り」にした「安易で心地のいい」書物が粗製乱造されがちな昨今の出版界にあって、滋味豊かな毒を含んでいる。私は好きだ。 とくに幼少期に母親から受けた体罰について回想するくだりで、彼女は「しつけ」という名目で自分を叩いたり

          多くの「良心的教育者」とってさえ体罰は「快楽」だったのかも知れない

          「人生」に飽きた人の群れのなかで

          「人生(存在してそこにあること)」に飽きているような人間しか「目」に入らない。たぶん自覚はないだろうけど、「人々」は既に「そこにあり続けること」に「うんざり」しているのだ。だから何を読んでいても空虚そのものであり、誰と話していても空虚そのものである。「死ぬこと」について考えている素振りを示している最中でさえ空虚そのものである。「誰も」がついはからずも「誰でもない誰か」として漂流している(ように見える)。 マルティン・ハイデガーならさしづめ「頽落」と呼ぶような在り方を、私は「存

          「人生」に飽きた人の群れのなかで

          「文章素人」の分際で毎日ブログを書き続けるのに欠かせない「ふてぶてしさ」について

          いわゆる「寝てない自慢」についての悪評判がウェブ上でこれだけ反復流通されているのにもかかわらずいまだに「昨日二時間しか寝てなくてさ」なんて無邪気素朴にこぼしたがる人がいることに、私のような常識人はやはり吃驚してしまうわけです。ある種の心性を持つ人たちの間ではもうこれは挨拶みたいなものなのだろうか。なんて野暮な自分語りが一般化してしまったものだろう。それならまだ「最近勃たなくてさ」なんてもののほうがマシですね。 俗人との関わりが今よりもあった時分、いわゆる「連勤自慢」というも

          「文章素人」の分際で毎日ブログを書き続けるのに欠かせない「ふてぶてしさ」について

          いまこれを読まないと永久に読めないかも知れない

          ごく卑俗な調子で「語学の天才」として伝説的に語られることの多い「言語哲学者」井筒俊彦は、私が長らく範とし続けている私淑の師なのだ。 「博覧強記」はいつの世でもいる。「雑学王」や「オタク」は掃いて捨てるほどいる。しかし井筒俊彦の知識欲は正真正銘の「求道者」のそれだった。ロシア文学を論じるときはドストエフスキーやプーシキンが憑依しているようでまこと鬼気迫るものがあったし、『コーラン』について書くときは生粋のムスリム的敬神性がテクストに横溢していた。ギリシアの神秘哲学、スーフィー哲

          いまこれを読まないと永久に読めないかも知れない