結婚は判断力の欠如、子作りは倫理観の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如
ああ今日も図書館に行きます。そのまえに何か書きたくなった。昨夜の酒が残っていていささか朦朧気味だけどキーボードを鳴らしたいよ。そういえばミソフォニアで苦しむ人は他人のタイピング音にも我慢しかねるようですね。私の場合、タイピング音はトリガーではないけど、その耐えがたさは「ある程度まで」分かる。
私のまいにち通っている図書館にもカチャカチャ威勢よく鳴らしているのがけっこういる。たぶん大学生で、レポートか何かを書いているんだろうと思う。しかし「夢中に勉強している人間」というのはどうしてあんなに雑で無神経になるのだろうかね。「勉強している私」すなわち「えらい」すなわち「無遠慮でOK」みたいな内在論理があるのだろうか。しまいにはそいつら、ペンやメガネも投げ出すように机に置きやがるでしょう。いやもっと丁寧に扱おうぜ。さぞかし「こんなにテキパキ頑張ってる私ステキ」とでも思っているに違いないな。自分の一生懸命さに酔っているんだ。自分のテキパキを見せびらかしたいんだ。ああ、こういう俗人的作法、私は嫌だよ。女にこういうタイプが多い気がする。ちなみに私はじゃれ合う女たちのクスクス笑いもしくはヒソヒソ声が気持ち悪くて虫唾が走るほど嫌いなんだけど、あれはマジで止めて欲しいね。軽い殺意が湧く。まだ地声で話してくれたほうがいい。いわずもがなだけど所構わずクシャミを連発するのは圧倒的にジジイが多い。これには重い殺意が湧く。俺が全盛期のスターリンならクスクス娘もクシャミ爺も粛清決定です。我が精神の安寧を脅かす存在は許さん。
察するにオレはなにもかもにイラついているんだ。
このごろ人と話している途中にウンザリすることが多くなった。話柄にかかわらず詰まらない。なんでだろうか。たぶん「最大問題」と無縁の話ばかりしているからだ。私における最大問題とは、「なぜ何も存在しないのでは何問かが存在しているか」という問題であって、この問題につまずいたことのなさそうな人間は私にとって日々ますますどうでもいい存在になりつつある。路傍の石に語り掛けても仕方ない。
本だってそうだ。なにを開いても下らないことがある。「生」とはほんらいこんなに下らないものだったか。むしろ私がだんだん下らない何ものかになっているだけなのかも知れない。「もうそれはウンザリだ」が口癖になっている。
くだらねえ話はもう止めろ、それより俺はなんでこんなに分けの分からない世界のなかにいるんだ?
なにゆえ誰もが「なにもか」を理解し終わったような顔して生きているんだ?
どうして誰も「このこと」を真剣に論じ合おうとしないんだ?
ことによると私は「人間集団のなかで自分だけが覚めている」と思い込んでいる滑稽な存在なのか?
ああ、そろそろ出掛けます。