「人生」に飽きた人の群れのなかで
「人生(存在してそこにあること)」に飽きているような人間しか「目」に入らない。たぶん自覚はないだろうけど、「人々」は既に「そこにあり続けること」に「うんざり」しているのだ。だから何を読んでいても空虚そのものであり、誰と話していても空虚そのものである。「死ぬこと」について考えている素振りを示している最中でさえ空虚そのものである。「誰も」がついはからずも「誰でもない誰か」として漂流している(ように見える)。
マルティン・ハイデガーならさしづめ「頽落」と呼ぶような在り方を、私は「存在論的白痴」と呼ぶのだけど、そうした状態にある限り、「人」は虚ろなワン・オブ・ゼムでしかなく、既にそこにあり続けている「そのようにある」を眺めつつ身を預けているに「過ぎない」。
「人」である、ということは「凡庸さ」に徹するということなんだ。「ものの存在」ではなく「ものごと」にいつも意識が張り付いていることである。いつもなんとなく「いろいろな見慣れたものごと」に囲まれてあるということである。何かが存在している、というこの「途轍もない現事実」に驚くことなく、「いつもそこを通り過ぎている」ということである。こうした「凡庸さ」は「存在の慣れ」によってあらかじめ強化されている。「現代」の日常的次元でいえば、たとえばスマホの新着ニュース確認やラインのメッセージ交換などの「生活没入的雑務」によって強化され続けている。「誰か」や「何ものか」といった他者存在がはじめから「そこにあり続けて当然の何ものか」としてしか認識されていない。
「凡庸さ」を振り払うためには、「自明性の剥落」とでも呼びうる特異的契機、たとえばいつも顔を合わせている人間の顔を凝視しながら「いやお前誰だよ」と発したくなるような特異的瞬間を自ずから引き寄せなければならない。「自己」を「自己」として全面的に規定している「凡庸さ」を迂回するための「気付き」を自ずから引き寄せなければならない。
「凡庸さによって裏付けられている自己」は今すぐ「存在論的特異点」とならねばならず、「いかなる〈認識的惰性〉によっても腐敗していない途轍もない今ここ」に躓かねばない。そこには「見慣れた他者」もいなければ「いつもの何か」も存在しない。なにもかもが「未既定のある」なのだ。
それにしても隣室のジジイ。朝からゲホゲホうるせえな。てめえの咳のせいで薄汚れた「日常」に戻されてしまったじゃないか。他人の咳はなんでこんなに不愉快なのだろう。もう聞こえてくるたびに殺意しか湧かない。しかもそやつが喫煙者だったら尚更。だいたい咳に限らず人間が体の内側から出す音すべてが嫌いだ。老人に限らず人間というのは醜い「生き物」ですね。こんな醜い生き物が「宇宙」に存在していることを私はいまだに許せていない(類嫌悪がそのまま自己嫌悪になるのが辛い)。
「人間」に出来る最も華麗で偉大なことは「集団自決」に違いないんだけど、地球規模で見れば増えてるんだよね。憎まれっ子世にはばかる、とはこのことか。醜悪なものほど増え続ける。いやはや、美学的にはどう考えても消滅すべきものに限ってその自覚さえない。どう考えてもこれは「悪夢」ですわ。「悪夢」よ、早く覚めろ。なにもかもに俺はウンザリしている。