-無駄-時間と金と体力の節約が削り落とす莫大な幸福
時間と労力の節約によってどれだけの幸福が奪われているのかという事を考えさせられたのは2017年辺りだった。行動や発想の全てに無駄が溢れているような友人との関わりが大きなきっかけだ。その友人は自分の行動が無駄に溢れていることに全く気がついておらず、俺からしたらどうしてそんなに無駄が多いのか不思議でしょうがなかった。けれども、取り敢えず彼の言う通りに遊んでみた。ある日一緒に走ろうということになり、都合の良い駅で待ち合わせた。すると、彼は自転車を持っているのに何故か待ち合わせ場所に歩いて来ていた。目的地は自転車で20分のところだったので歩きだと下手したら1時間はかかる、時間が無駄になると思え心底腹が立った。そのまま怒っている場合じゃないので、時間の節約を諦め無駄話をしながら歩き出した。すると至る所に面白そうなものがあって寄り道をしながらフラフラと歩いた。結局目的地に着いた頃には帰らなきゃいけない時間で1本だけ100mを走って帰った。けれどもいつも通り走るより遥かに楽しかった。
それまでの人生、殆どゴールを決め、目的に沿って最適化し、時間、金、労力の無駄を省くように行動をしてきたが、"無駄"として省いてきた余剰にはゴールを達成した時に得られる幸福感を遥かに凌駕する幸福感が敷き詰められているのだと、その時に知った。
それが有名だとか金持ちだとかを幸福と関係付けて信仰する感覚を懐疑するようになった大きな要因だったような気がする。後にこれは「物事を善悪で分けることは不可能で、物事に善悪があるだけだよね」って言う考えに至る要因にもなっていたはず。