「短編小説」聖母マリアは死なない 4
殺すターゲットは決まった。
でも、大の男を私が殺せるかしら?
スクラップブックを両手で抱きしめながら、殺人初心者の実花が考えているとスマホが鳴った。
『702号室 サイドテーブルの中』
ラインの発信者は『聖母マリア』だった。
702号室は実花が明日、清掃を担当する部屋だ。其処に何かが入っている?
殺しの道具?
足がつかないピストル?切れ味の鋭いナイフ?それとも毒薬かしら?爆弾はないわね、他の犠牲者が出るから……
実花は不謹慎にも自分がわくわくしているのを感じていた。明日になるのが待ち遠しいなんて思うのはいつぶりの事だろう。
今まで「明日が来るのが楽しみ」なんて思った事はなかった。実花にとっての「明日」は、人の目から逃れながら永遠に続いていく「罰」以外のなにものでもなかったのだから。
ぞくぞくするような快感を覚えながら、冷蔵庫から一本だけ冷やしてある缶ビールを取り出した。
プルタブを開ける。しゅわっという音と共に泡が弾けた。口の方からビールの泡を向かえる。
「ぷは〜〜、美味いっ」
一人暮らしの醍醐味で、CMのように思いきり声を出してみた。
(あれ、私…なんだか活き活きしてる?)
まだ何も始まっていないのに実花は「殺人」への恐怖よりも喜びを感じている自分に驚いた。
「笠松 繁」待っててね。
私が貴方を楽にしてあげる。
実花にとって「死」は、苦しみや恐怖ではなかった。楽になること…
でも、すんなり天国へなんて行かせてあげないわよ。
翌日、実花はいつもよりも早く出勤した。702号室の清掃を少しでも早くする為に。
でも、いったいどんな人が宿泊したのかしら?その人が「聖母マリア」のリーダー?それとも一員の一人?
好奇心や興味や喜びが混じった気持ちで、実花は702号室のチェックアウトを待った。
ところが、いつまで待っても702号室だけはドアが開け放されなかった。
「Please do not disturb」(起こさないでください)
の札もドアノブに掛けられていない。
どういうことだろう?
担当の他の部屋を全て整備し終わった実花は、702号室の前に立ってみた。
「あら?」
ドアの下に何か硬い物が挟まれて、よく見なければ分からないくらいに僅かに開いていた。
「お客様、失礼します」
清掃道具を入れたカートを引きながら小さな声を掛けて、そっと中へ入ってみた。
「た…す…けて…」
「えっ?」
ベッドの上に仰向けに横たわる血だらけの男が、息も絶え絶えに実花の方を見て助けを求めている。その眼の片方の眼球に細いナイフのような物が突き刺さり白い液体がだらだらと流れ出していた。
めった刺し
という言葉がぴったりくるが、急所を外してあるのか、まだ生きている。
どくどく、どくどく…
切り裂かれた傷から血が溢れ出し白いシーツを染め続ける。
「だ、誰か呼ばなくちゃ、あ、でもその前にサイドテーブルの引き出しを…」
さっきまでの好奇心どころではなかった。頭で想像していた「殺人」と実際に見る「殺人現場」の
違いに実花は狼狽えた。
「えっ?ちょっと待って、殺人?」
血だらけになった男の顔をもう一度よく見てみた。
「あ、笠松繁!」
どういうこと?私が殺すはずの男が、既に息も絶え絶えで死にそうになっている。放り出された笠松のスマホを取り上げてみた。
血だらけの指先を丁寧に拭いてあげる。まだ温かい、死んではいない。人差し指を一本借りて指紋認証をするとスマホは直ぐに開いた。
刺される寸前まで見ていたのだろう。
液晶画面にあの被害者家族のサイトが映し出された。
「死ね!」
「バカ夫婦!」
「腐れ家族!」
「だから子供が死んだんだよ」
ヘドが出そうな辛辣な言葉が笠松のアカウントから発信されていた。
「お母たん、お母たん…」
美香の耳に遠く花の幼い声が聞えたような気がした。
「貴方が首謀者だったの。誹謗中傷も…ふ〜ん」
ひくっひくっひくっひく…
死期が近いのか、笠松の身体が痙攣を起こし始めた。実花は笠松を見下ろしながら、意識が遠のきそうになると時々モップの柄でちょんちょんと起こした。
「まだ死なせないわよ。ゆっくり、ゆっくり、苦しみながら逝ってくれる?」
この部屋に入れるのは、今は清掃係の私一人。
ホテルのフロントが騒ぎ始めるのにはまだ時間がかかる。
「ぐっわ~」
痛みに苦しんだためか、傷が内蔵に達したらしい。
笠松が吐血した。
「もっと苦しかったと思うの。小学生の男の子」
モップの柄を胃の上部からぐりぐりと動かしてみた。
「あんまり強く押すと死んじゃうわね」
サイドテーブルの引き出しを開けるとスマホと百万円が入っていた。スマホの上には一枚の紙切れが置かれていた。
ポケットに百万の札束を突っ込むと実花は紙きれに書かれた「動画を撮れ」の指示に従って、笠松の最期をスマホに収めた。
「ゆ、るして、…くれ」
最期の力を振り絞って叫ぶと、笠松繁は息絶えた。
「貴方の苦しみなんて15分にも満たなかったわ」
急いでモップを消毒するとお金と撮影したスマホをビニール袋に包んで隣室のトイレのタンクの中に落とした。
ジャー
「動画を撮れ」の紙は便器に流した。
何かの本で読んだ事がある。犯人は被害者の隣室には泊まりたがらない。だから警察の目も緩い…
まぁ、それに別に見つかっても構わない。
「あっ」
廊下に出てから気付いた。702号室と703号室は、ホテルの防犯カメラのちょうど死角に位置していた。セキュリティに力を入れていても建物の構造上、止む負えない場所がある。
「プロの仕事…」
実花は関心しながら702号室に戻り、フロントに電話を掛けた。
「た、大変です。お客様が、お客様が亡くなられています!」
ブルブルと震えながら、フロントマン達の到着を待った。これが武者震いだなんて誰も思わないだろう。
後は、あと三人殺るまでのらりくらりと警察の目をかいくぐっていればいい。
つづく