十二月の殺人鬼#「シロクマ文芸部」
十二月になると思い出す。
母と手を繋いで急な坂道を上った先に、その家はあった。樹々に囲まれた庭の向こうにひっそりと建つ瀟洒な洋館の前に立ち止まると母は一息付いてから、僕にこう言った。
「今日から、此処が私達の家よ」
幼かった僕は母が何を言いたいのか分からなかった。
母と僕が暮らしていた家は、坂道を下った所にある小さな借家で、いつも漁師が釣ってきた魚の臭いが充満しているあの場所のはずだった。母の顔を見上げて僕は聞いた。
「お引っ越しするの?」
僕の手を握りしめる母の手は、真冬なのに汗ばんで心なしか震えていた。
「そう、お引っ越し」
「ふ〜ん」
子供心にも母は美しい人だったと思う。父の顔を知らずに育った僕にとって母だけが唯一の家族だったせいもあるのだろう。僕は母の後ばかりついて歩くような子供だった。でも僕には、もう一人「おじさん」と呼んでいる優しい男の人が居た。
おじさんは僕の家に来るといつも、お小遣いをくれて「遊んでおいで」と言ってくれた。お引っ越しをするともう、おじさんには会えないのかと思うと少し寂しかった。
母は覚悟を決めたようにその家のチャイムを押した。
「お入りください」
インターホンから知らないおばさんの声がした。僕達の暮らす家には、もう他の人が暮らしているんだ。僕は母と二人きりじゃないのにがっかりした。
重厚な木のトビラを開けると中は僕が見た事もない世界が広がっていた。天井から吊るされたシャンデリアや大きな壷、壁には有名な画家が描いたと思われる絵画が飾られていた。
その広い玄関に白いエプロンをつけたおばさんが、作り笑顔で立っていた。
「奥でご主人様がお待ちでございます、奥様」
「ありがとうございます」
母は軽く礼をすると靴を脱ぎ揃え、僕のスニーカーも一緒に隅へ揃えて置いた。
おばさんの後について行くと、沢山ある部屋の中の一つの前で止まってノックをした。
コンコン
「奥様とお坊ちゃまがお着きになりました」
「どうぞ」
僕達が通された部屋にあの優しいおじさんが居た。
「よく来てくれたね」
書斎と言うのだろうか。沢山の書物が詰まった本棚に囲まれた真ん中のソファにおじさんは座っていた。
「わぁー、おじさん」
「よく来たな、洋平」
僕がおじさんの膝の上に飛び乗ろうとすると
「私のパパに触らないで!」
後ろから誰かが叫ぶ声がした。
「百合、こっちへおいで、紹介するから」
百合と呼ばれた少女が人形のような巻き髪にフリルのついたワンピースを着てドアの入り口に立っていた。少女は僕を睨みつけたまま僕の前を通り過ぎて、おじさんの膝の上におさまった。その態度は今にも『此処は私だけの席よ』とでも言いたげだった。
おじさんは
「娘の百合だ。今年八歳になる。洋平のお姉さんになるんだよ」
このお人形のような女の子が僕のお姉さん…
「百合、新しいお母さんと弟にご挨拶して」
女の子はエベレストのように高いプライドをかなぐり捨てると頭をちょっと下げて、そのままぷいっと横を向いた。
「百合ちゃん、これから仲良くしましょうね」
僕の母が優しく言っても、百合は此方を振り向こうともしなかった。
それが僕が姉と初めて会った十二月のある日の事だった。
広い洋館に住み始めると直ぐに僕に子供部屋と称した個室が与えられた。今まで母と一緒に一つのお布団で寝ていた僕が、初めて一人でベッドに眠らなければならなくなった。2階の僕の部屋は、長い廊下の丁度真ん中くらいに位置する。
ある夜の事だった。僕は怖い夢を見て起きてしまった。その後も眠ろうとして、ベッドの中でぎゅーっと目を瞑るが、どうしても眠れなかった。羊を数えても仲の良いクマさんのぬいぐるみを抱き締めても眠れない。
僕はベッドから降りて、長い廊下を母を探して歩いた。
寂しい、怖い…お母さん
素足で赤い絨毯の上をペタペタと歩いた。
ガチャ
一つの部屋のドアが開くと姉になった百合がドアの隙間から此方を見ていた。僕はもっと泣きたくなった。どうせ、また何か文句を言われるんだろう。
「おいで」
「えっ?」
百合の白くて小さな手が、ドアの隙間から手招きをする。
「洋平、おいで」
その声に吸い込まれるように僕は初めて百合の部屋に入った。お人形さんのような百合の部屋は、やっぱりお人形さんのような家の部屋だった。
いつの間にか泣きじゃくっていた僕の頭をよしよしと撫でてくれる。
「洋平も寂しいんだね」
「うん…ひっくひっく…」
「百合も寂しいよ。お母さん死んじゃったから」
あんなに暗くて悲しい目を僕は始めて見た。
「そうなの?」
「うん、病気でね」
八歳の百合は一人で、その悲しみを乗り越えようとしている。
「お姉ちゃんって呼んでもいいよ、洋平」
僕は思いきり両腕を伸ばして、百合を抱きしめた。姉の悲しみを支えてあげるつもりだったのに
「甘えん坊さんなんだね、洋平は」
百合には、僕の気持ちは伝わらなかったらしい。
その夜は百合のベッドで、百合に抱かれるように眠りについた。それから僕と百合は本当の姉弟のようになった。僕が小学校に上がると一緒に登校した。チビで弱虫な僕がクラスメイトに「愛人の子」ってイジメられているとフランス人形のような百合が、学校のホウキを持って
「私の弟をイジメるな!」
その子達を追いかけ回してくれた。
いつしか僕は、そんな姉が大好きになっていた。
でも百合は僕には優しくしてくれたけど、僕の母には何年経っても懐こうとしなかった。それは異常なまでに頑なだった。
今、思えばそれが、あの事故の要因だったのかもしれない。僕達親子が、この家に来てから三年が経った十二月、百合はあっさりと死んでしまった。
学校の帰りにアナフィラキシーショックを起こして救急車で運ばれた時は、既に息はなかった。
何かの食べ物のアレルギーだったらしい。
当たりどころのない悲しみからか、父は長年勤めていた家政婦のおばさんを頚にした。
それから僕を以前にも増して可愛がるようになった。「おじさん」と呼んでいた父が、僕の本当の父親だと知ったのは、あの頃だ。
母は、あれ以来クッキーを焼くのを止めてしまった。
「洋平、いい?これは洋平だけの美味しいお菓子よ。誰にもあげてはダメよ。誰にもね」
母は毎日、僕に一つだけクッキーをくれた。僕は、ずっとその約束を守っていた。
「いい?誰にもあげてはダメよ」
毎日毎日そう言われる。人間って、おかしなものでそう言われると大切な物だから大好きな人にあげたくなる。
毎日毎日、僕は母の呪文に耐え続けた。
あの日も百合は僕をいじめっ子達から守ってくれた。だから、そのお礼に百合のランドセルの中にそっとクッキーを入れたんだ。
「早く逃げて帰りなさい、洋平」
僕は百合を置いて、一足先に家に帰っていた。
それが最期に聞いた姉の声だった。
ナッツアレルギーという言葉を僕は、かなり後になってから知った。百合の母親も、そのアレルギーショックで亡くなった事も。
もう何十年も昔の話しだ。
僕は父親の後を継いで貿易関係の会社の社長職に就任した。
後悔していないか?って。
僕はサイコパスの母の血を引いているんだよ。後悔なんてしていないさ。
それよりも円高で会社の負債が増えたから、もう一度、母にあのクッキーを焼いてもらおうと思っている。今度の妻の保険金は五千万で微々たるものだけどね。
妻?
もちろんナッツアレルギーだよ。
十二月になると思い出す。
初めての殺人の味を……
了
また企画に参加させて頂きました。
ちょっと長くなっちゃった。でも、なんとか間に合いました。
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