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「短編小説」聖母マリアは死なない 5


「どういうことだ?!」
日頃、丁寧過ぎるほど丁寧な言葉遣いと所作のホテルマンが険しい顔と乱暴な声を上げて入って来た。地味でとりたてて特徴のない中肉中背な男だ。

「う、うわっ」

それから笠松の遺体を目の当たりにすると暫く押し黙ってしまった。放心状態と言うのだろうか。血を見るのは一般的に女性より男性の方が慣れていない為か弱いのだろう。

「私にだって分りません」
「と、とにかく警察を呼ぼう」

まだ呼んでなかったんだ…
ああ、そうか。私は「お客様が亡くなっている」としか伝えていない。これは、どう見ても「殺人」だ。
心筋梗塞や脳出血などの突然死ではない。

「一応、救急車は呼んであるけど…」
長い間、ホテルマンを勤めてきた彼はマニュアル通りの対処を行ってから702号室に駆けつけたらしい。

「病死の経験はあるんだが…こんなのは初めてだ」

年間を通じて、殆ど同じ温度、湿度に保たれているこのホテルの部屋も時間が経つに連れて、血なまぐさい匂いが充満し始めた。
実花はこの匂いを嗅ぐのも死体を見るのも初めてではないと思い出していた。
東京大空襲の時は目の前で何十人、何百人、何千の人が焼け焦げていった。熱さで川に飛び込んだ人々からも焦げた異臭が立ち上った。火の手は容赦なく川を燃え上がらせていったから。
関東大震災だって……

もう現代人には遠い遠い過去の話なのだろう。
実花が、そんなことを考えている間に正気に返ったホテルマンはあちこちに連絡を取り始めた。

救急隊員が到着して笠松の死亡を確認すると首を横に振って去って行った。此処からは警察の仕事だと言わんばかりの大袈裟な芝居掛かった仕草だった。
間もなくして警察官がぞくぞくと入って来た。
中肉中背のホテルマンと実花は、702号室の前の廊下へ出された。

ホテルのチェックインの時間にはまだ時間があるが、当然のように7階は封鎖された。平日で良かったとフロントは思っているだろう。この階に宿泊される予定だったお客様をあちこちの階に割り当てなければならない。
黒縁メガネを掛けた色白で神経質そうな男がエレベーターから降りて来て、実花達に一瞥すると緊迫した面持ちで702号室の警察官達に向かって
「当ホテルは全力で捜査に協力させて頂きますが、くれぐれも他のお客様のご迷惑にならないように捜査をお願い致します」
頭を下げて懇願している。
これで、このホテルの利用人数は当分の間ガタ落ちになるだろう。ただでさえコロナ禍の三年間で売り上げが落ちている。イメージを大切にするホテルとしては、これ以上のダメージは避けたいところだった。

「水野くん…だったかな?」
今まで実花が一度も会った事はない先程の黒縁メガネの男が声を掛けて来た。中肉中背の男が「総支配人」と呼んでいたから、そうなのだろう。
「はい」
「君が第一発見者だね?何でも刑事さん達に素直に答えるように」
「分りました」
「大丈夫だから、ね」
強く肩をポンと叩かれた。実花の小柄な体型がか弱そうなイメージを男性に与えるのだろう。
(大丈夫?何が大丈夫なの?)
ふっと嗤ってしまいそうなのを堪えて
「はい…」
うつむき加減に小さく返事をした。

第一発見者が先ず有力な容疑者として疑わられるのが推理小説で読んだ捜査の定説だ。
実花は友人を持たない分、あり余る時間であらゆるジャンルの本を読んできた。まさか、ここでその知識が役に立つとは思わなかった。孤独な時間が実花の味方に付く日があろうとは、考えた事もなかった。

刑事達の実花への質問が始まった。
「何故、お客様がまだ滞在しているかもしれない部屋へ君は入ってみようと思ったの?」
強面の刑事が屈んで実花と視線を合わす。何もかも見透かしているような鋭い視線だ。
「ノルマの最後のこの部屋が、ちっとも空かなくて…」
「いつもそんな事してるの?」
まるで泥棒か置き引きの犯人扱いだ。
「違います。ドアが開いていたんです。だから、中へお声を掛けました。そしたら…」
「ドアは最初から開いていたんだね?」
「そうです」
「おかしいな〜」
「でも、開いていました」
「普通、殺人って少しでも事件の発覚を遅らせたいものだよね」
そうだろう。犯人が少しでも遠くへ逃げる為に。
「私には分かりません」
「うーん」
強面の刑事を始め、周りを取り囲む他の刑事達も頭を抱えてしまった。このホテルは多くのホテルと同様にドアを閉めれば自動的に部屋はロックされる。
それをあえて、何故開けておいたのだろう。
いや、その前にどうやって犯人はこの部屋に入れたのか?
殺害された状態から強い殺意を感じる。怨恨の可能性が高いのに、被害者が自らドアを開けたのか?
「うーん…」
「課長、凶器と思われるナイフがバスルームから発見されました!」
室内を捜査していた別の刑事が、背後から声を掛けた。これによって刑事達が俄然色めき立ち始めた。
更に実花に質問をしていた刑事の携帯が鳴った。
「うん、うん、分かった……そうか」 
何か別の発見があったらしい。
実花は、さっきまで鋭かった刑事の視線が少し緩んだ事に気が付いた。
「君はバスルームへは入って居ないんだね?」
「はい」
「この部屋を出て行く不審な人物は見ていないかな?」
「見ていません」
「そうですか、ありがとうございます。また、何かお聞きするかもしれませんが、今日のところは、これで」
取り調べと呼ぶには、あまりにも拍子抜けするような詰問だと実花は思った。

でも、私をもう少しだけ自由にしてくれるのね。
実花の心の中で、箍が外れた。




つづく








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