マジマジと見つめられた視線の先で、この世界に惚れ直した。ちょっとだけ。
補聴器をつけることや手話をすることは、わたしにとって必要なこと。だけれど、それをマジマジと見つめられる視線が、なんだか苦手だった。「わたしは聴覚障害者です!」と宣言しながら歩いているようで、それがとっても恥ずかしい気がしていた。
***
ヘロヘロバタバタな平日を終えて、やっと迎えた土曜日。「今日くらい……」とお昼頃までベッドでゴロゴロして、軽くおうどんを食べた昼下がり。
平日は軽く済ませるお化粧もちょっぴり丁寧に時間をかけて、いつもは黒いゴムで束ねるだけの髪型も一手間掛けてアップにする。それだけでうんと気分が上がってくるんだから、わたしはやっぱり女の子なんだな、なんて思ってはニヤッとしてしまう。
朝は「今日くらいゴロゴロしてすごすんだ!」とすっかりお篭もりモードだったのに、ほんのちょっとおしゃれをしたわたしを家に置いておくのはなんだかかわいそうな気がして、近所のカフェまでお散歩をすることにした。
いつもはブラックコーヒー派だけれど、今日はわたしを甘やかすお篭もりday。飲み物だって、とことん甘いカフェモカにしよう。
レジで注文してカフェモカができるのを待っていると、後ろに小学4年生くらいの女の子がお母さんと一緒に並んできた。オーダーをしてニコニコしながらその列に加わった女の子は、わたしをマジマジと見つめた。
「はて、知り合いだったっけ」いくら思い返しても、20代も後半ののわたしに小学生の友達はいない。勘違いだろうな……そう思いながらも、彼女がちょっと気になって、オーダーした飲み物が出来上がっていくのを眺めるふりをしながらその親子を視界に入れていれる。
聴覚障害者は、目で世界を捉える。だからわたしは、人と比べると視野は広い方だと思う。友達と話していても、口元を読み取りながら掲示物を眺めたり出入りする様子に気付けることが多いらしい。このときも彼女のことを見つめないように、カフェモカが淹れられている様子を見つめながら、彼女たちを視界の隅に入れるようにする。
女の子は、相変わらずわたしの方をじっと見つめている。そして、お母さんの耳元に口を当てながら、ヒソヒソと何かを話していた。
あぁ。補聴器が珍しいんだろうな。
髪の毛をアップにしたわたしの左耳には、昔と比べて幾分か小さくなったとはいえ、分かる人には分かる大きさの耳掛け補聴器を装用している。
手話をしながら歩いていたり補聴器に気付いた人がわたしの方を見て小声でコソコソと話しているときは、たいてい「ねぇ、あの子聴覚障害者なんじゃない?」なんて言っているように感じてしまう。
憐れみのようなそれは、その人の視線からも感じるし、その話を聞いたもう一人の方がバツの悪そうな表情をしながらわたしに一瞥をくれる姿からも、ヒシヒシと感じる。この日もやっぱり、女の子のヒソヒソ話を受けたお母さんが、わたしの方を見てなんとも言えない表情をしていた。
左耳が聞こえにくくなって、手話をするようになって……補聴器をするようになったはじめの頃は、手話をすることも補聴器を付けることも「わたしは障害があります」とみんなに宣言しながら歩いているようで、なんだかすごく恥ずかしかった。
だから、わりと敏感に周りの視線を気にしていたと思う。今のわたしは補聴器をつけることにも手話をすることにも抵抗はないけれど、あのときの名残か、わたしの左耳に付けている補聴器や手話をしている様子を見ている人の視線は、なんだか気になってしまう。
今でこそ、悪いことをしているわけじゃないんだし、わたしが生活していくのに必要なものだから、と堂々と補聴器を付けて髪の毛をアップにするし、手話もする。それでも、ジロジロと見られていい気持ちはしない。
はぁ、やっぱり家でゴロゴロしてた方がよかったかな。なんて気持ちでシュンとしかけたちょうどそのとき、わたしのカフェモカが完成した。受け取ろうとカウンターに進むと、
1.2.3.4.5.6……
あれ?
これはもしかして。
女の子が嬉しそうな顔をしながら、数字を指で表していた。1.2.3.4までは、聴こえる人たちと同じように。でも、5から先は明らかに手話だった。
聴こえる人の6以降のカウントは、指で表すと大体手をパーにして5を差しながらもう片方の手で1.2.3.4と数字を表してその両手の指の本数を足し合わせて表現する。でも、聴覚障害者の使う手話は6以降も片手で表現していく。だから、わたしたちは1億を超える数字を表現するときも、片手で事足りる。
女の子のカウントは、5.6.7.8.9.10.11……と手話特有の数字の表現が続いていく。女の子は少し自慢げな表情で、お母さんはニコニコしながら彼女を見つめる。
なんだ。わたしは憐れまれていたわけでも、好奇の目を向けられていたわけでもなかったんだ。
なんだかすっかり拍子抜けしてしまった。と同時に、聴覚障害者と聴こえる人を勝手に比較してしまっていたのはむしろわたしの方で、わたしのきこえなさはわたしが思っている以上に周りの人たちにとって特別なことではないのかもしれないな、と気付いてはっとした。
そういえば、わたしが手話で友達と会話をしている姿を初めてきこえる好きな人に見られた日のこと。
彼は帰り際に「手話で話すsanmari、めっちゃかっこよかった。ぼくもわかるようになりたいなぁ」と言ってくれた。そして、その日を境に彼はちょっとずつ手話を覚えては街中のBGMや人混みで聞き取りづらいときに披露してくれるようになった。
高校まで聴こえる人たちと同じ学校で生活してきたわたしはある程度音声でのやり取りができるし、彼は手話がほとんどできないから、普段のコミュニケーション方法はもっぱら音声がメインだった。だからその日初めて手話で話している姿を見られて、正直ちょっと恥ずかしかった覚えがある。
彼の前では普通の女の子でいたかったし、聴こえない女の子と付き合うことで彼が世の中から憐れまれたり好奇の目で見られるのは嫌だな、となんとなく思っていたんだと思う。だから、彼が自分から手話を使うだなんて、ちょっとよくわかんないな……なんてことも正直思っていた。
それでも、「英語とかスペイン語が話せるみたいに、手話ができるって普通にカッコよくない?」なんていいながら無邪気に街中で手話をする彼に「この人本当におもしろいな」と思いながらまたちょっぴり惚れ直したのだ。
あのときの彼と同じような、それはもう自慢げな表情をしていたその女の子の表情が、とてもとても嬉しかった。彼女と直接話はしていないけれど、わたしは「視覚で世界を捉える人」だから分かる。彼女とお母さんの間にはとてつもなく幸せな空気が流れていた。
わたしの補聴器が、手話が、あの幸福な世界を作る要素の一つになっていたかもしれない。
土曜日の昼下がり。あのカフェで、わたしはたぶん、この世界にちょっぴり惚れ直した。