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あるいは、「祈るしかない」という希望について。
なす術がない
そう悟った日から毎日、彼女は祈り続けていた。あの日々を、わたしは一生忘れないと思う。
***
幼少期に過ごした東北の地が、休日の習い事の送迎も父親参観もいつもわたしたちを包み込んでくれた祖父母が大好きだったわたしは、わりとあっさりとその地の国立大学に進学した。もちろん、大好きな祖父母の家に下宿しながら。
祖母は、今でいうフリーランスの旅好きだった。ノートパソコンを持って新幹線や飛行機に乗り、日帰りで東京に出たり泊まり込みでヨーロッパに行ったりするような。そんな祖母がいたから、わたしも今 #旅と写真と文章と なんていう、コミュニティに属することを心地よく感じているのかもしれない。
大学4年生にもなると、入学時に「大学生協おすすめ!」という右も左も分からない高校生を「これがないと、大学生活を送れないのでは⁈」と不安とパニックの渦に巻き込んだ赤くて微妙に重いノートパソコンが、少しずつガタついてきていた。
どう見ても、祖母のノートパソコンの方が新しくて動きも良い。おまけに彼女は「わたしのパソコンの方がスムーズみたいだし、いつでも使っていいわよ」とドヤ顔でパスワードまで教えてくれていたもんだから、わたしは我が物顔で彼女のノートパソコンを使っていた。
あの日も、いつものように「さぁレポートでも書くか」とスリープ状態のパソコンを開いてパスワードを打ち込んだ。すると、医療ドラマでしか見たことのないような身体の上半身のレントゲンのような写真が出てきた。
純粋に「これはなんだろう……」と思いながら、隣のタブをクリックするとそこには
肺癌の可能性
と書かれていた。
これは、わたしが見てはいけないものだったのだろうか。はたまた、同じパソコンを使うわたしに向けた祖母からのメッセージなのか。
どちらにせよ、とんでもないものを見てしまったんだな……とえらく動揺してそのパソコンをそっと閉じて、母に電話をした。
もちろん母はすでに祖母から知らされていて、ちょうどその週末に病院に付き添う予定だったらしく。母が家に来たタイミングで、母と祖母の二人から彼女が肺癌であることを告げられてその通院に付き添った。
彼女の癌はわたしたちが思っている以上に進行していて、それはステージⅣ。つまり、末期の状態だった。
「薬なんか飲まない」「ワクチンなんて」「脱原発!」とあんなにも人工的なものを受け付けなかった祖母があっさりと抗がん剤治療を受け始めたことに家族みんなが驚き、彼女も人の子だったんだな……なんて笑えたのも最初の数ヶ月だけで。
気付いたときには階段も登れなくなり、毎日痛み止めを飲むようになった彼女に、わたしたちもおそらく彼女自身も動揺するしかなかった。
あの日々。彼女は起き上がるたびに窓の外をを虚な目で眺めながら手を合わせていた。そのほんのちょっと前からだろうか。わたしが出かけようとするたびに申し訳なさそうな顔で
「ねぇ、帰りに大日如来さんに行って手を合わせてきてくれないかしら」
と五円玉を渡してくるようになった。
その大日如来は十二支でいう未と申を祀る地元の御本尊。医師から「なす術がない」と言われた祖母が、最後の最後に心の拠り所にしたのが、その自分の干支を祀った大日如来だったのだ。
このお堂に祈る事が彼女の救いになるのなら……と思いつつも、我が家から徒歩20分。どの駅からも微妙な距離感のあるそのお堂に行くには、回り道をしないといけない。
卒業論文に追われ院試に追われ引越し費用捻出のためのバイトに追われていたわたしは、なにかと言い訳をしながらそっとあのお堂を避けるようになっていった。
彼女の目線が日に日に虚ろになり、癌の転移が進んでいく。いつも笑顔だった祖父が怒りっぽくなり、震災の日だってデパ地下で被災したくらい元気が取り柄の曽祖母の体力も急激に落ちて、トイレの失敗が増えてきていた。
お堂に祈ったところで、もうどうにもならないし、お堂はわたしたちを救ってなんかくれないだろう。
そう思うと、ますます避けたくなってきた。
それでも。彼女はどんなに熱があってもどんなに苦しそうな顔をしていても、毎日毎日お堂の方を眺めながら合掌していた。
そして、あのとんでもないパソコン画面を見てしまった日から8ヶ月後、彼女は我が家で息を引き取った。
彼女が亡くなってからの我が家は、祖父とわたしの2人きり。卒論を提出し終え、院試に合格したわたしは、卒業準備と引っ越し準備に追われるようになり、彼女の母である曽祖母の介護を祖父1人に任せるわけにもいかず、曽祖母は引き続き老人ホームにお願いすることになった。
その老人ホームから我が家までの間に、あの大日如来を祀ったお堂が建っていた。
冬の雪が降る夜。いつもニコニコしている祖母が初めて「家に帰りたい!」とポロポロと涙をこぼしながら怒った夜。わたしはトボトボと歩きながらあのお堂の前に立っていた。
20やそこらの女子大生に、一体何ができるんだっていうんだ。もう、なす術もないじゃないか。そして、とめどなく溢れる涙を流しながら静かに手を合わせた。
ひとしきり泣きながら祈っていると、ふと涙が止まって、こう思った。
わたしはもう、祈ることしかできない。
雪が深々と降り続いたあの夜、なす術はなくてもまだわたしは「祈ることができるんだな」と思えたことは本当に本当に救いだった。
我が家はわりと宗教というものに寛大で、父方の祖父は曹洞宗の元住職で、その妻にあたる祖母は神社の娘。彼女と曽祖母は日蓮宗のお寺に通っていたのに、最後に頼っていたのは大日如来。なんならわたしはミッション系幼稚園を出て日曜学校に3年も通ったというのに、大学時代のお正月は巫女の助勤をしていた。
母からも祖母からも
「神様はいっぱいいるのよ。どの神様を信じるかじゃなくて、どの神様にも感謝すればいいじゃない」
と言われながら育ってきたので、わたしはこの歳になってもクリスマスを楽しみ初詣に行く。そして、地元に帰ると大日如来のお堂の前で合掌する。
そんなことを、選挙の帰り道に教会を見掛けながら考えていた。
それは多分、つい数日前に見た塩谷舞さんのツイートの影響も大きいと思う。このツイートを見たときに、なぜか心がぐわんと揺れたようなそんな気がして。あぁ、あの夜とあの日々のわたしと彼女の物語と塩谷さんの言葉が繋がっていたからなんだな、と思うとなんだか心がほっこりしてきた。
もうなす術がないときに人は「祈るしかできない」というけれど、何もできなくても、最後にまだ祈りという行為が残されていることは、絶望の中の希望だよな
— 塩谷 舞 mai shiotani 💭 (@ciotan) October 22, 2021
たとえ望む結果にならなくとも「なにもできなかった」と「祈りを尽くした」ではあまりにも違う
本当になす術もないとただ祈ることしかできなかったあの夜、確かにわたしは祈るという希望に救われたんだよな。と。
ハレルヤ!
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