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「導く」と「支配する」の危うい境界線
先日、『小学校 〜 それは小さな社会 〜』という映画を観てきた。ある公立小学校の1年間に密着して生徒の成長や教師の奮闘を描いたドキュメンタリーだ。
やはり学校教師の方々の間でも話題になっているようで、耳にする評価も様々だ。東京都の世田谷区という舞台のせいもあるのか、映像を観ていても育ちの良さそうな子供が多く、家庭も教育熱心でありながら子供の個性や自立を尊重するといった進歩的な保護者像が垣間見られた。そのため、「こんな素晴らしい教育がしてみたい」といった理想を作品中に見出す人もいれば、「うちの学校ではこんな対応は現実的に難しく、理想論に過ぎない」と反発を覚える向きもあるようだ。
一応家庭教師や日本語教師という形で教育に関わっている身としてこの映画を観た感想は、「怖いなあ」というものだった。
作中では縄跳びができなかった6年生が運動発表会までに必死の練習を重ね、本番で見事に課せられた技をやり遂げるまでの軌跡が描かれたり、次年度に新入生を迎えることになる1年生が新歓演奏の練習で厳しく叱責を受けつつも、最後には堂々とステージに立つ姿が映し出されたりする。
こうした「成長」を後押しするのが教師の声掛けだ。運動発表会に向けては「できないことをできるようにする過程が大事」といった趣旨の説諭を行い、自身のパートを覚えないまま合奏練習に臨んでしまった子供には「きちんと練習してこないんだったら辞める?」と厳しく問い掛けつつも、後日しっかりフォローする。これらのはたらきかけによって生徒が期待された「成長」を遂げる姿を見るのは教師冥利に尽きると言えるのかもしれない。
ただ、教師の望み通りに子供を「成長」へと導くというのは、一方で「支配」と言えなくもない。人間の「成長」は一通りではない。幾つもの可能性の中から一つの道を望ましいものとして選び歩ませること、それは「導く者」としての教師の役割でありつつも、同時に生徒の可能性を制限してしまう側面も持ち合わせている。
前述の縄跳びや器楽演奏のシーンを観ていてふと考えてしまったのは、「この指導は他の子でも上手くいっただろうか」ということだ。
「できないことをできるようにする」ことは確かに「成長」の大事な要素だ。ただ、これは相当に厳しい要求で、大人にとっても難しい。たとえば、料理が苦手な人が1か月後のパーティーで客をもてなす料理を作ることを要求されたり、スピーチの原稿を完璧に覚えて一言一句間違えず発表することを求められたりすることを考えてみよう。多くの人はストレスで胃に穴が空きそうな気分になるはずだ。
もちろん、学校において要求される数々の挑戦は、大人になって現実に課せられるこういった困難を乗り越えていく力を身につけるための「練習」として意義深い。ただ、「練習」である以上、失敗の存在もそこには折り込まれていなければならない。つまり、挑戦しても成功させられなかったり、挑戦の途上で挫折してしまったりといった経験もまた許容されるべきだということだ。何せ、大人ですら十分に成し得ない、あるいは腰が引けてしまうような課題が要求されているわけなのだから。
作中に登場する子供たちは幸運にも壁を乗り越えることに成功した。けれども、全くできない縄跳びを本番までにできるようにするという厳しい努力を求められて挫けてしまったり、譜面通りに演奏できなかったことを理由に厳しく叱責されて心に傷を負ってしまったりする子もいるかもしれない。
そうした子供が存在する可能性を考えると、「できないことをできるようにする」という「成長」を至上のものとして要求したり称揚したりすることには幾分かのためらいを感じざるを得ない。しかも、その「できる」はあくまでも教師が決めたやり方や目標に忠実な達成を意味するのであって、ほかの形で成し遂げた「何か」は原則として評価されないのだ。
俺が「怖いなあ」と思うのは、教師のはたらきかけや寄り添い方が完璧に近ければ近いほど、「支配」もまた隙のないものになるという点だ。
毅然とした教師の態度、叱咤と励ましの使い分け―これらは「正しく」教師の意図を伝え、かつ然るべき道を歩むための熱意や動機を与えるうえで多大な効果を持つだろう。そこに「敬意」まで育まれれば、指導者として言うことはない。
半面、それは生徒から自由や逃げ場を奪うことになるかもしれない。たとえば、温和で威厳のない教師が「できないことをできるようにする過程が大事」などと訓示を垂れたとしても、子供は小馬鹿にして言うことを聞かないかもしれない。それでは教師失格と言われるのだろうが、それは子供が教師に従わないという選択を自由に行えるということでもある。他方、威圧感を纏った強面の教師が同じことを言えば、子供は心の底で反発しつつも従わざるを得ないという気にさせられるかもしれない。これは恐怖や力によってわかりやすく自由を奪われた状況である。
当然、現代の多くの人は後者のような形で従順さを強いられることが不健全だと考えるだろう。けれども、これはまだ「従わされている」という自覚や反発を伴うという面で健全であるという見方もできる。
仮に、人格的にも尊敬に値する教師から厳しく指導されれば、生徒としてはその期待や要求に応えたいという思いが生まれるのは無理からぬことだ。たとえそれが自分の意に沿わぬことであっても、あるいはどうしようもなく不条理で苦痛を覚えるようなことであっても、抵抗感を覚えるのは自分が至らないからだと考えてしまう。そして、求められた通りのことができない自分を責めることになるかもしれない。昨今話題となっているグルーミングは、まさに子供のこうした心理を利用したものだと言える。
そして、本当に恐ろしいと言えるのは、教師という存在は仕事柄、自覚や悪意の有無は別にして、グルーミングをごく自然に行ってしまいがちだという点だ。教師としては「正しい」ことを言わねばならない。そのとき、子供の心が多少なりとも傷つくことは避けられない。ゆえに、叱った後は優しい言葉を掛けたりして安心を与えようとする。すると子供は「この人は心から自分のことを思って言ってくれているのだな」と感じ、そこに敬意と信頼が生まれる。こうしたあり方は、おそらく多くの人が優れた教師なるものに抱く理想像だろう。
この場合、犯罪的なグルーミングとの違いは声掛けの意図や要求の内容においてしか存在しない。このような教師のはたらきかけが非難ではなく称賛を受けるのは、ひとえにその言動が善意に基づいており、しかも「正しい」ことを要求しているという信頼に基づくからだ。
けれども、教師は常に「正しい」存在であると言えるだろうか。
善意の有無に関しては職業倫理上、教師にその責任を問うことができるかもしれない。けれども、100%の善意から犯される過ちというのは存在する。
先に述べたように、困難の克服や叱咤からの立ち直りは誰にでも求め得るものじゃない。仮に逃げ出さず立ち向かったからといって、必ず成功が約束されるようなものでもない。それにもかかわらず、困難や叱咤を乗り越えさせることこそが子供のためになると確信し、常に努力へと駆り立て諦めたり挫けたりすることを許さない姿勢は本当に「正しい」と言えるものなのか。
俺が映画の中で目にした指導は確かに素晴らしいと言えるものだった。教師の言葉やはたらきかけに背中を押され、子供たちは見事に成長を遂げていた。けれどもその一方で、同じ指導によって自信を喪失したり、自己不能感に陥ったり、学校へ行くことそのものが負担になってしまったりするような子供がいたとしても驚きはしないなと思う。
もちろん、そうした事態は同様に暴力教師や、威張ってばかりで生徒の気持ちを全然顧みない教師によっても同様に引き起こされ得る。むしろ、その可能性の方が高いと言ってもいい。けれどもそれは、その責めを教師や学校に帰すことができるという点で、まだ救いがあると言えるのではないか。
一方、生徒の心に寄り添った指導が不幸にも子供の心を傷つけたり挫けさせたりしてしまった場合、その責めを向けるべき先は存在しない。それは事実その通りなのであって、本来誰もが何一つ責められるに値しない素晴らしい状況のはずなのだけど、にもかかわらず失敗した当事者が己を咎め立てる矢を自身に向けてしまうことを防ぐのも難しい。こうした自己嫌悪もまた、当然ながら子供の善良な心から生まれるものだ。教師と子供、双方の善良さゆえに不幸な結末が訪れるのだとしたら、これほど悲劇的なことはない。
生徒が教師に敬意を払い、その要求に忠実に応えることで成長のステップを踏んでいくという構図は日本における教育の理想的モデルであり、それは日本社会の強みと弱みの両側面に繋がっている。
たとえば、日本人の真面目さや勤勉さ、集団行動における規律正しさや団結心といったものは日本の教育モデルが培ってきた強みだと言えるだろう。その一方で、他者とは異なる独創性を発揮したり、年長者や経験者の言を重んじるあまり自らの意見を表明したりすることに及び腰となるような姿勢もまた、同じ教育によって育まれてきたものだ。
こうした両面性を考慮すると、日本式教育が良い、あるいは悪いと一概に断じてしまうのは適切な態度とは言えない。勤勉さや忠実さが必要な局面も、独創性や反骨心が求められる局面も社会には存在する。
ゆえに、この映画が描いた教育のあり方が単純に「素晴らしい」とのみ受け取られるのは好ましくないのではないかと感じる。称賛の多くはおそらく、日本の理想的な教育モデルを思い描いた上で生まれているものだ。けれども、それが徹底されれば徹底されるほど、理想に近付けば近付くほど、「支配」の側面もまた強くなりかねない危険性は意識されるべきではないか。
俺達教育者は商売柄、生徒の「成長」や「成功」を理想とし、それを後押しする手管を磨こうと必死になってしまいがちだ。
その一方で、そうした「導き」に不感応な生徒の存在も現実として認めなくてはならない。そこに対して「支配」を強めることで、無理やり「成功」へと向かわせようとしていないか、他のやり方や生き方を選択する自由を狭めてしまっていないかについては、自覚して留意すべきなのだろうと思う。優れた教師ほど、たやすく生徒の敬意を勝ち取ることでその心を操れてしまう側面があるのだから。
教師というのは、きっと少しいい加減なぐらいがちょうどいいのだ。そこに子供が自由な選択をする遊びが生まれる。当然、その選択には不服従や侮蔑だって含まれてはくるのだけど、それを奪ってしまったところに成立するのは完全なる「支配」なのかもしれない。
そんなことを考えさせられる映画だった。