[補導事案]その時親はどうする
「補導された。」
それを聞いたとき、親であるわたしたちはどうするのがよいのでしょうか。
今日はすこし「煩悩」についても触れてみたいと思います。
正しく生きてほしい
その一点だけを望んでたのに育つにつれていろんな欲が湧いてきますよね。
欲:これが一つの「煩悩」です。
学校のことや、友達、身体のこと、それと将来のこと。いろんな比較によって、こうなってほしい、あんなふうになったらな。なんて気持ちがどこかに湧いてしまう。だれもが経験あると思います。
ふと朝起きると見慣れた着歴の番号から留守電がありました。(なぜ見慣れてるかというとよく電話あるから 汗)
まず一軒目、「深夜徘徊」。
本人に聞くと、「友達と自販機でジュース買いに行っただけ」と。
そもそも、泊まりは聞いていないし、許可なんてしてないですけど。
二軒目、「自転車の二人乗り」。
偶然わたしが昼間に自家用車で走行していると、反対側から自転車のグループが向かってくるのを発見。
とてもキラキラしてて、いかにも楽しそうって感じのグループ。
よく見ると、うちのコやん。
咄嗟にクラクション鳴らして注意するも、すぐそのあと前方からパトカー襲来。
なんてバットタイミング。
胸騒ぎじゃなくて、ほぼ間違いなく捕まったと確信を覚え、わたしの自家用車はUターン。
ブ~ン!
‼️
やはり捕らわれていました。
自転車の防犯登録確認。
住所、氏名の確認。
うなだれ、しかめっ面の子どもたち。
必死に住所と名前など。
決められたとおりの情報をほしがる警察官。
最初、なぜかこの目の前に広がる絵面をみてこう感じました。
「虚無」
誰もなんの価値も生み出していない。
なぜ自転車の二人乗りをしてはいけないのか。
なぜ補導するのか。
警察官はただ業務遂行するのみ。
子どもたちはただしかめっ面して、時が経つのを待っている。
うーん、なんだろうか。いろいろもったいないなって思いました。
そうして、わたしがあと引き継ぎ、子どもたちに、伝えたことは、
「ルールがあるなら、やっぱり自分で考えて正しく在ろうね」
おっと。
かなりフワッとしたことしか言ってるやん。
このときわたしは「何を言うべき?」「だれかに迷惑かけたか?」とかいろいろ思考しました。
それでも何をこの青年たちに言えばいいのかわかりませんでした。
本来、「正しく生きてほしい」にはルールを守ることという意味ではなく、自分の思うまま自由にっていう意味が付け加えられていると思っています。
それがいろんな要素によって少しずつ意味を変えてしまっていることに気付いてしまったんです。
子どもが補導って凄くショックを受けると思います。
何も感じないなんて言う人、そんなの親ではない。
わたしはこの「補導」という事態に、遭遇した時こそ子どもとの向き合う大事な時間だと思ってます。
警察官や学校にお任せってことにしない。それは今回あの業務を遂行する警察官と、しかめっ面の子どもの絵面を見たとき強く感じました。
怒るのではなく、向き合う。
でも、とても難しいですよね。
怒りは一度湧き上がると本当にコントロールが難しいです。
仏教の教えに「人間には百八つの煩悩」があるとされています。
そのなかでもこのわたしを煩わせ、悩ませる「怒り」という煩悩。
子どもの補導という機会で、自分の親としての未熟さと弱さ、そんなものを感じました。
ただそういった自分の内面と向き合うことが大事であると思います。
子どもとの向き合う時、表面だけではなく、心の奥のふかいところで向き合えるようになりたいですね。
おわり
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